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【話の肖像画】歌舞伎俳優・中村獅童(48)(6)憧れの叔父「心で演じろ」

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8歳で襲名したとき。叔父、萬屋錦之介の隣で口上を述べた=昭和56年6月、東京・歌舞伎座
8歳で襲名したとき。叔父、萬屋錦之介の隣で口上を述べた=昭和56年6月、東京・歌舞伎座

 《叔父は国民的大スター、萬屋(よろずや)錦之介。歌舞伎の名女形、三代目中村時蔵(ときぞう)の四男で、4歳のときに中村錦之助として初舞台を踏む。20歳のときに映画界にスカウトされ、昭和29年、映画デビューする》

 当時の梨園(りえん)では歌舞伎役者が映画に出演し、歌舞伎と映画の両方で活躍することが許されない時代でした。「映画界に進みたい」という錦じぃ(錦之介)の言葉を聞いて、父親の三代目時蔵は「おまえが決心したのなら反対はしない。しかし失敗したからといって、再び歌舞伎の世界に戻れると思うな」と言ったそうです。

 《叔父の錦之介は獅童の本名、幹弘(みきひろ)の名付け親にもなった。父親の追善としてスタートした毎年6月の東京・歌舞伎座での萬屋興行を定例化。叔父とは舞台「一心太助(いっしんたすけ)」で共演。「長崎犯科帳(ながさきはんかちょう)」(平成4年)で地方巡業にも同伴した。「幡随長兵衛(ばんずいちょうべえ)」(6年)では子分役で同じ舞台に立った》

 幼いころにかわいがってくれた錦じぃとは、同じ舞台に何度か立ったことがあります。「一心太助」に出していただいたときは16~17歳で、ほとんど歌舞伎の舞台には出ていないころです。将軍、徳川家光のお毒味をする腰元の役で、口を付けたとたん毒が回ってあっという間に死んでしまう、お役でしたけれどね。

 歌舞伎に復帰した19歳のときには、「長崎犯科帳」でひと月半、地方を巡業しました。そのときは一緒に過ごす時間も長くて、僕も少し大人になっていましたから、初めていろいろと芝居について、お話もできた気がします。食事の席で錦じぃから聞いた「顔で芝居をするな。心で演じなさい」という教えは、今も座右の銘にしています。

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