【門井慶喜の史々周国】敦賀運河跡 「大坂遷都論」夢の残り香

その川はとても細かった。見た目には川というより側溝に近く、ひょいとまたいで渡れるほど。
かたわらの道路をときどき車やトラックが通りすぎるのが日常感にあふれている。雪がふっていた。道ぞいの住民たちが家の前の雪かきをしていて、その雪のすてどころもその川だった。福井県敦賀市、疋田(ひきだ)という小さな集落の一風景である。
この川ないし側溝が、じつは歴史の壮大な構想の残り香をただよわせる生きた文化財(ただし再現)であることはあまり一般的ではないらしい。私はそこへはJR敦賀駅からタクシーに乗って来たのだが、その運転手にさえ、
「疋田に? 何かあるんですか?」
と逆に聞かれたくらいである。運転手はベテランらしく、市内の道路には通じていた。
江戸時代、わが国の物流の大動脈は、いわゆる西廻り航路だった。
たとえば昆布を運ぶ船ならば、産地はもちろん蝦夷地(北海道)である。たっぷり積みこんで日本海を西行(せいこう)し、関門海峡でUターンして瀬戸内へもぐりこんで大坂へ着く。昆布はあるいは上方(かみがた)風のうどんのだしになり、あるいは値段をつけられて全国へ出荷されるだろう。大坂はいわゆる天下の台所。あらゆる物資が商品になる巨大な取引市場だった。
文字どおりの「西廻り」。しかしながらこの航路は、安全ではあるが、あんまり遠まわりにすぎるのも事実である。近道がしたい。そこで日本海岸、敦賀あたりから水路を南の内陸へと掘り進んで、
--琵琶湖へ、接続できないか。
そういう構想は当時からあった。船は琵琶湖を縦断して、南岸の大津で荷揚げするもよし、そのまま瀬田川へ入りこんで淀川へながれこむことも将来的には可能かもしれぬ。
ざっと計算するだけでも四割から五割は距離がちぢまる。西廻り航路の成立によって何となく通過駅みたいになってしまった北陸諸国の経済もじゅうぶん立てなおせるだろう。
着工は、文化十三年(一八一六)というから第十一代将軍・徳川家斉(いえなり)の時代である。四か月かけて敦賀-疋田間に水路を通した。長さは六、七キロ、川幅は九尺(約二・七メートル)と、まことにささやかな流れだった。船のすれちがいも不可能だったのではないか。急勾配で工事がむつかしかったのか、それとも水量がじゅうぶんでなかったのか。
疋田から先は、何とまあ牛車をもちいて山を越えたという。越えたところに琵琶湖があるのだ。いろいろ不足だらけだけれども、とにかく一部開通はまちがいなく、敦賀からは米や干鰯(ほしか)(魚肥)が、上方からはお茶が、それぞれ送り出されたとか。お茶はもちろん宇治のお茶なのにちがいない。
結局、この水路は、ほんの二十年ほどで使われなくなった。
幅のせまさのせいでもあろうし、牛車への積みかえもやはり面倒だったのだろう。特に後者は、それを省こうと思ったら山をぶちぬいて長大なトンネルを掘らねばならず、そんな高度な土木工事はこの時代では不可能だったのである。
近代に入ると、可能になった。いうまでもなく西洋の工法が輸入されたからであるが、そのときにはもはや、皮肉なことに、敦賀と琵琶湖を水路でむすぶという構想自体が無になっていた。首都が東京とさだめられ、国家機能の集中がいっきに進んで、商品取引市場としての大坂の存在感が低下したのが大きかった。
そこで私は、思うのである。もしも首都が大坂だったら。
いわゆる維新の元勲たちが、
--一国の首都は、経済機能が肝要である。
とか何とか、どんな理由でもいいけれどとにかく上方のほうへ注目していたら。実際、元勲中の元勲というべき大久保利通は当初は大坂遷都論をとなえていた。もしも前島密(まえじま・ひそか)の建言によって翻意することがなかったら、私がいま立って見ている小集落の風景はまったくちがっていたはずなのだ。
早い話が、側溝は大運河になっている。日本のスエズ、日本のパナマとも称されただろう敦賀運河。大型船がひっきりなしに山のトンネルに吸いこまれ、そこから出て来る。首都への大動脈。トンネルも世界最大級だ。はるか上空から見れば、本州は、ここから大坂までの水の線でまっぷたつに割り裂かれるわけである。
いま残るのは、そんな夢のわずかな残り香。かすかなひび割れ。私はふたたびタクシーに乗り、敦賀駅に向かった。雪がふたたび強くなった。バックミラーでうしろを見ると、住民たちが雪かきの足を繁くしていた。