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【ビブリオエッセー】ゆっくりと流れる平凡な日々 「つむじ風食堂の夜」吉田篤弘(ちくま文庫)

 誰が名付けたか、<つむじ風食堂>。月舟町の十字路の角にぽつんとたたずむ「名無しの食堂」を、客たちはそう呼んでいる。その店はつむじ風がひとつ、くるりと廻る場所にあった。

 店主はパリ帰りというシェフで、そのこだわりは店内のメニューにも表れている。「コロッケ」は「クロケット」、「生姜焼き」は「ポーク・ジンジャー」、「鯖の塩焼き」に至っては「サヴァのグリル、シシリアンソルト風味」と気取った名前のオンパレードだが実はおなじみの定食名を並べただけの安食堂なのだ。

 物語は、ここに夜ごと集う(開店は午後六時だ)少し風変わりな常連客を中心に語られる。主人公の「私」は三十六段の急な階段を上った<月舟アパートメント>七階の屋根裏部屋の住人で、「人工降雨」を研究している。

 そして、ただの万歩計を瞬時にコペンハーゲンへもイルクーツクへも行ける<二重空間移動装置>と称して売りつける「帽子屋のおじさん」こと桜田さん。清貧のふた文字を標榜する古本屋の店主「デ・ニーロの親方」など、どの人物も一家言ありそうな個性派ぞろいである。

 また、町の様子も物語に何げなく溶け込んでいるのがいい。全体に大きな起伏はないものの何げない日常がゆっくりとした時の流れとともに描かれており、気持ちを和ませてくれる。

 文中、ある喫茶店主が亡くなった父をしのびながら語る場面がある。「親父、よく言ってました。もし、電車に乗り遅れて、ひとり駅に取り残されたとしても、まぁ、あわてるなと。黙って待っていれば、次の電車の一番乗りになれる」。そんなたわいない言葉が心にしみた。

 コロナ禍の、誰もが不安を感じ、先の見えない世の中で、この一冊は平凡な日々の大切さを思い起こさせてくれる。

京都府木津川市 福森裕一 57

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