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【東日本大震災10年】第2部 教訓(1)子供の命を守りきる

教室の時計は津波が到達したとみられる時刻を示したまま止まっていた=平成23年3月22日、宮城県石巻市の大川小
教室の時計は津波が到達したとみられる時刻を示したまま止まっていた=平成23年3月22日、宮城県石巻市の大川小
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 丸い壁かけ時計は、その時刻を指したまま、動かない。3時37分。東日本大震災が起きた平成23年3月11日の午後、時計が指した時刻に津波が到達した。

 宮城県石巻市の追波(おっぱ)湾から北上川を4キロほどさかのぼる。新北上大橋のたもとにあった市立大川小学校。モダンな2階建て校舎は住民たちの自慢だった。いまは壁が津波で砕かれ、黒く冷たい鉄骨がのぞく。

 児童74人、教職員10人が避難途中に津波にのまれた。東日本大震災時、学校管理下で起きた最大の被害だ。

 「何年たっても後悔だけ。守ってやれなかった」

 6年生だった三男の雄樹さん=当時(12)=を失った佐藤和隆さん(54)は語る。

 あの日午後2時46分。強い揺れが襲った。「津波が来ます」。校庭へ出ると、防災無線が警告していた。「山さ逃げっぺ!」。そう訴える子供もいた。校庭の近くには、シイタケ栽培の体験学習の場となった緩やかな山があった。しかし、教師たちは校庭にとどまり続けた。

 50分が過ぎた。避難先に決まったのは、川の近くにある「三角地帯」と呼ばれる高台だった。1分後、移動を始めた一団を津波が襲った。民家の2階にも達する壁のような濁流だった。

 「どうして、校庭にとどまり続けたのか」

 「なぜ、山へ逃げなかったのか」

 遺族たちは幾度、同じ問いを重ねたことか。

 佐藤さんら一部の遺族は真相を究明するため、市と県を相手取り、損害賠償の訴えを起こした。悲劇から8年7カ月がたった令和元年10月、最高裁は被告側の上告を退け、学校と行政の過失を認定した仙台高裁判決が確定した。

 佐藤さんは語る。

 「まだ明らかになっていない部分はある。しかし、救えた命だったことは明らかになった」

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