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【本郷和人の日本史ナナメ読み】再考「鎖国はなかった」論(下)膨大な唐物(からもの)はどこから?

 明の皇帝は限られた者としか、会見しませんでした。その国の王様、王様の使者とのみやりとりをしたのです。その他の者とは意思の疎通を拒絶しましたし、交易も認めなかった。いうなれば、経済的には原則、国を閉ざしていたのです。それが「海禁」政策というものになります。

 さて、ここでクイズです。日本から明に派遣される船のことを遣明船と呼びましたが、この明国公認、また、交易を独占していた遣明船。室町時代を通じて、何回くらい明に渡航していたでしょうか? …実は15回なのです。幕府の権威が低下し、幕府の代わりに大内氏もしくは細川氏が派遣したのが6回。あわせても21回。これがすべて。

 ここで、ぼくは疑問をもたざるを得ません。あれ?尼子氏の上級家臣も唐物を日常使いしていたんだよね。大名の尼子氏本人ならともかく、上級とはいえ、その家臣に行き渡るほどの唐物、たった21回行き来しただけの交易船でもってこられるものなのかな? とてもムリじゃないのかな。室町時代が唐物好きな時代というのは了解したけれども、人々の需要を満たすだけの唐物は、いったいどこからやってきたのだろう?

 次回は2月4日掲載予定です。

【用語解説】松江の礎築いた堀尾忠晴

 1599~1633年。堀尾氏が居城を月山富田城から松江城に移したときの藩主。堀尾吉晴の孫に当たる。吉晴は早くから羽柴秀吉に仕えて功績があり、佐和山城4万石を領し、豊臣秀次を支えた。徳川家康が関東に移ると、浜松12万石を得た。秀吉死後は家康に接近し、堀尾氏は関ケ原では東軍として戦う。その功により、出雲の国主となった。ただし、吉晴の子の忠氏は早く亡くなり、若年の忠晴が藩主に任じ、祖父の吉晴の補佐を受けた。だが、忠晴は後継者なく病死し、大名としての堀尾氏は断絶した。画に忠晴とともに描かれているのは松村監物という人物で、堀尾氏の家臣。忠晴の没後、殉死したそうだ。

                   ◇

【プロフィル】本郷和人

 ほんごう・かずと 東大史料編纂(へんさん)所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

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