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【本郷和人の日本史ナナメ読み】再考「鎖国はなかった」論(下)膨大な唐物(からもの)はどこから?

 江戸時代前期の1666年、富田川が氾濫し、富田城下に形成された広瀬の町は水没しました。それで、いま発掘してみると、多くの遺物が出土する。その中には青花・青磁・白磁といった中国の焼き物が含まれていました。白磁のお皿には、中国で焼かれたものであるのに「天文」と日本の年号の銘があります。わざわざ注文して、焼いてもらったのではないか、という解釈がなされています。これらを見ると、少なくとも戦国大名・尼子家の上級家臣(有名な山中鹿介(しかのすけ)はその一人)たちは、唐物を日常的に使っていたことが分かります。室町時代は唐物好きの時代なんだねえ、と五味先生が確認するようにおっしゃったのを、今でもよく覚えています。

 さて、その場はそれで納得したのですが、後年、海禁政策のことを知って、不思議に思うようになりました。日本の室町時代に対応する中国の王朝は「明」ですが、この国は国の王様とのみ「朝貢」のかたちで交流をしていた。A国の国王が明の皇帝にご機嫌伺いの使者を派遣する。そのとき、A国国王は明の皇帝に貢ぎ物を差し出し、臣下として振る舞います。すると明の皇帝はA国使者に、よくぞはるばる明の徳を慕ってやってまいった、とお褒めの言葉を賜り、使者の交通費をすべて負担し、貢ぎ物に十倍する品物を送ります。つまり、家臣扱いされることに耐えられるなら、A国にとってはものすごくお得な交流になる。ですのでこれを、「朝貢貿易」と言ったりします。

 もう少し厳密に言うならば、朝貢した国は明など中国王朝から「冊封(さくほう)」されます。中国皇帝の家臣となることを冊封といい、冊封された国は貢賦(こうふ)(貢献物)と版籍(地図と戸籍)を毎年進上しなければなりません。版籍奉還という明治初年の政策の「版籍」はここで用いられた言葉です。また冊封された国は中国王朝の元号と暦を用いねばなりません。けれども明の時代には、この原則は厳守されていたわけではないようです。日本の足利義満は「臣 源道義」として皇帝の家臣として振る舞い、交流を行いましたが、元号と暦を用いることはありませんでした。

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