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【書評】『Mトレイン』パティ・スミス著、管啓次郎訳 内省と追憶の大切さ

 「パンクの女王」とうたわれた、あの有名なミュージシャンの回想録。パティ・スミスの本を初めて手にする私は、迂闊(うかつ)にも音楽にまつわる思い出話だと思い込んでしまった。

 ところが、そうではない。いささか謎めいた『Mトレイン』の「M」とは何よりも「Mind(マインド)」のこと。心の動きを列車に喩(たと)えている。

 最初の停車駅は「カフェ・イーノ」。彼女の行きつけのカフェだ。ブラックコーヒーを注文し、同じ席に座って、読書をしたり、文章を書いたり、表紙写真のように物思いに耽(ふけ)る日々を過ごす場所だ。カフェは彼女の心の拠(よ)り所だと言ってよく、見知らぬ土地でもカフェを探す。ブラックコーヒーは彼女の人生に欠かせない。

 本書を読んでいると、世界とは、あたかも文学と芸術で出来(でき)ているかのように思えてくる。好きな作家や芸術家を想い、旅に出る。ジャン・ジュネのモロッコに。フリーダ・カーロのメキシコに。とくに私が好きなのは、彼女がヴェーゲナーの大陸移動説を信奉する秘密協会に入会している、という挿話だ。日本の文学・映画を愛し、日本を訪れるエピソードもある。ムラカミの『ねじまき鳥クロニクル』は彼女の大好きな本だ。読者は、パティ・スミスの趣味や興味関心のうちに、自身の何かしらの思い出を見つけるにちがいない。

 しかし、幸福を思い返すのは、それが今は存在しないからだ。自分の意に反して、大切な場所が失われる。大好きなカフェ・イーノは閉店し、愛する夫フレッドは彼女と子供たちを置いて他界する。

 Mトレインとは、失われた場所に、愛する故人にもう一度出会う旅路のことだ。私たちは、パティ・スミスの言葉を通じて、彼女の記憶と内面世界を深々と共有していく。ユーモアと悲哀が入り交じりながら、細部まで具体的に描写されるこの物語のうちでは、すべてが優しく、生き生きとしている。

 内省と追憶の大切さが、本書から伝わってくる。どんな人と出会い、別れたのか。どんなものに興味を抱いてきたのか。

 誰もが自分だけのMトレインをもっている。その旅は、人生のかぎり、終わりはしない。(河出書房新社・2600円+税)

 評・中村隆之(早稲田大准教授)

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