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【ビブリオエッセー】一筋の光を与えてくれるもの 「ささやかだけれど、役にたつこと」(「CARVERS DOZEN レイモンド・カーヴァー傑作選」より) レイモンド・カーヴァー著 村上春樹編・訳(中公文庫)

 「こんなときには、ものを食べることです。それはささやかなことですが、助けになります」。パン屋の店主は、子どもを亡くして悲しみに沈む夫婦に、こう言って焼き立てのパンを差し出した。

 「ささやかだけれど、役にたつこと」は村上春樹の名訳が胸を打つ短編だ。原題は「小さな、良きもの」。

 物語は母親が一人息子のためにバースデイケーキをパン屋で注文する場面から始まる。ところが8歳の誕生日の朝、息子は交通事故に遭い、昏睡状態の末に亡くなる。いつまでもケーキを取りに来ない客に、事情を知らない店主は繰り返し無愛想で不作法な電話をかけ続ける。息子の死を予感して不安と恐怖にさいなまれる夫婦の三日間が緊迫した描写で綴られる。

 初めて読んだのは確か大学生の頃だった。思い返せばこの一編はずっと胸の奥に潜んでいた気がする。仕事がうまくいかず落ち込んだ日、人間関係で悩んで悲しかった時、好きな人に想いが伝わらずつらかった日…。打ちひしがれて家路をたどり、ドアを開けると母の笑顔が迎えてくれ、温かい夕食が用意されていた。愛をこめて作られたそれをお腹いっぱい食べるといつも「よし、明日からまた頑張ろう」と思えた。

 そんな時、ふと小説の夫婦と店主が浮かんできた。店主は自分の非礼を心から詫び、パンを差し出す。絶望と悲しみの中でパンを口にする夫婦。どんなにささやかであろうと、心をこめて差し出された食べ物は、人に生きる力を与えてくれる。

 この小説に出会って十数年が経ち、私は主婦になった。仕事で疲れ切った夫の心が「ささやかだけれど、役にたつこと」に癒やされることを祈りながら、今日も帰りを待っている。

 さいたま市浦和区 みゆ 38

 【ビブリオ・エッセー募集要項】本に関するエッセーを募集しています。応募作品のなかから、産経新聞スタッフが選定し、月~土曜日の夕刊1面に掲載しています。どうか「あなたの一冊」を教えてください。

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