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【大場一央の古義解~言葉で紡ぐ日本】(30)徳川光圀 強靱な「個」水戸学の母胎形成

 神儒を尊んで神儒を駁(ばく)し、仏老を崇(あが)めて仏老を排す『梅里(ばいり)先生墓誌銘』

 「水戸黄門」として親しまれている徳川光圀(1628~1701)は、水戸藩(現茨城県)を「思想の藩」として運命づけた人物である。

 光圀は、側室の子として生まれた。懐妊時、初代藩主、頼房から堕胎を命じられたこともあり、家臣によって秘密裏に養育された。ただ、頼房は光圀の存在を知るや、病弱であった兄、頼重を差し置いて跡継ぎとした。このような生い立ちから、自身の存在に後ろめたさを感じて育った光圀は、長じるにつれて放蕩(放蕩)無頼を重ねるようになり、傅役(もりやく)が切腹して諫(いさ)めようとしたこともある。

 転機は18歳、中国・前漢時代の歴史家、司馬遷が編纂した歴史書『史記』の「伯夷叔斉列伝」に触れたことだ。

 舞台は、殷代末期の孤竹国(現在地不明)。弟である叔斉に国を継がせようとした父王の意を全うすべく、兄の伯夷が国を出奔し、それをよしとしない叔斉もまた国を出奔。別の弟が国を継いだ。その後、殷周革命に際し伯夷と叔斉は「いかなる理由があろうとも革命は謀叛(むほん)に過ぎない」と言って節義に殉じて首陽山(西山)で死に、後世から節義を称賛される、との内容だ。

 これを頼重と自身の関係に重ねた光圀は、自分の存在にまとわりつく後ろめたさを払拭し、生きる意味を見いだした。34歳で藩主となるや、すぐさま兄の子を養子に迎えて跡継ぎとし、自身の子は兄の養子にした。次の代で兄弟の序列を元に戻すためだ。

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