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【門井慶喜の史々周国】近代芸術と「ふつうのお寺」の本尊の調和 高岡大仏 

2度の大火で類焼し、再建された3代目の高岡大仏。高岡の技術の粋を結集して建立された=富山県高岡市(筆者撮影)
2度の大火で類焼し、再建された3代目の高岡大仏。高岡の技術の粋を結集して建立された=富山県高岡市(筆者撮影)

 銅像とは何か。手もとの広辞苑(第七版)は、

「青銅で鋳造した像。特に、記念碑的な像をいうことが多い」

 と定義し、例として「西郷さんの-」を挙げる。

 もちろん西郷隆盛だろう。あの東京・上野恩賜公園に立つ、犬をつれた、明治維新の功労者のおごそかな姿。

 つまり銅像とは偉人像である。少なくともそれが概念の中心にある。近代ヨーロッパの彫刻芸術の影響を受けて日本各地でつくられた写実的な人物の再現品、とでも補足したらいっそう丁寧になるだろうか。札幌のクラーク博士像も、仙台城跡の伊達政宗騎馬像も、大阪取引所前の五代友厚像も、みんなそういうものだった。

 ところがここに、定義はずれ(?)の一物(いちぶつ)がある。明治四十四年(一九一一)に完成した、青銅製の、記念碑的な彫刻作品であるにもかかわらず、高岡大仏はふつう銅像とは呼ばれない。理由はいちおう推測できる。それの象(かたど)るのが阿弥陀如来だからである。

 実在の人物ではない上に、容姿そのものが近代よりも古代をむしろ濃厚に想起させる。やっぱり大仏といえば、私たちはまず天平時代に起源を持つ東大寺のそれを思い浮かべてしまうのだ。この北陸の青空の下にあるのは、そんなわけで近代的古代、または古代的近代であるといえる。一見するに値する。

 ただし実際に行ってみると、境内の雰囲気はその中間というような感じである。つまり近世的。または徳川期的。住職と檀家(だんか)の良好な関係によって成立しているような、いい意味での「ふつうのお寺」なのだ。

 近所の親子なのだろう、若い女性が女の子とならんで手を合わせているのはいい風景だった。まわりの街なみの落ちつきもあって、私には、こころなしか大仏様もくつろいで見えたのである。東大寺や高徳院(いわゆる鎌倉大仏)とは趣のちがう普段着のモニュメント。そうなると逆に、

 --なぜ、この姿なのか。

 その疑問も湧く。ふつうの大きさの、ふつうの木像でいいじゃないか。それを本堂のなかへ入れ、お厨子(ずし)に入れる。たいていのお寺がそうしているようにだ。

 このうち大きさに関しては、どうも伝統があったらしい。この大仏を奉じるお寺は、いまは浄土宗・鳳徳山大仏寺という名前だが、じつは徳川期に二度も木造の大仏を建立している。どちらも火災で焼け、その二度目が明治三十三年(一九〇〇)だった。

 時代は、もう近代である。檀家や市民のあいだで、

 --三度目。

 その機運が高まったことは想像にかたくないが、どうせなら、

 --ぜったいに、焼けないものを。

 と彼らが考えたのも当然だった。たまたまと言おうか何と言おうか、高岡の地は、むかしから金属工業のさかんな土地だったからである。

 徳川期には代々の藩主(加賀藩)より一種の特区に指定され、鋳物師や彫金師があつめられた。彼らは税の一部を免除されたほか、名字までゆるされたというから厚遇というより歓待である。

 もっと言うなら、なりふりかまわぬ誘致策。これは納得の行くことだった。というのも、当時の金属というのは、こんにちの感覚ではみな貴金属なのである。鍋釜(なべかま)や鋤(すき)や鍬(くわ)でさえ鉄製ならば高額で取引されたものだし、ましてや仏具や梵鐘(ぼんしょう)、刀装品ともなると美術的価値が加わって、いっそう高値がついた。

 藩にとっては重要な税収のたねなのである。そうしてこの高岡の金属工業は明治に入っておとろえるどころか、むしろますます盛んになった。産業革命により金属製品の使用が一般化し、販路がひろがったからと思われる。加工技術の進歩はいうまでもない。そういういわば黄金時代に、そう、あの二度目の大仏が焼けたのである。三度目のそれはまさしく天を衝(つ)くような意気のまま、青空の下の、金属製の、巨大な坐像(ざぞう)になった。あらゆる点で高岡の街の代表たるにふさわしいのである。

 第二次大戦中、全国いたるところで「供出」と称して銅像たちが鋳(い)つぶされたときも、この大仏は生き残った。特殊な近代芸術であることと、ふつうのお寺の本尊であることの奇跡的な調和がそうさせたのかもしれない。

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