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【朝晴れエッセー】3度目のカット・11月17日

 81歳の母はコロナ禍で美容院に行かなくなった。2カ月に1度、素人の私に母の髪は託されることとなった。

 高齢とはいえ女性。ハサミといえども刃物。癖毛で多少ごまかせるとしても、左右のバランスなど首尾よくできるだろうかと緊張するが、それが母に伝わらぬよう、努めて明るく語り掛けた。

 3度目の機会が訪れた。これまでの2回とは少し違う心持ちでハサミを握った。

 14年勤めた会社を退職したばかりだった。この14年間、母は毎朝まず玄関で私を見送ると、急いで和室へ移動し、窓を開け、角を曲がる私にもう一度「気をつけてね」と声を掛けてくれた。

 どんなに遅い帰宅時も、夜目に優しい灯りがリビングにともっている。深夜メニューに切り替え、湯気をごちそうに食す私の傍らで、今日一日の出来事や、ときに愚痴に耳を傾けてくれた。

 就職期間中、3度の入院を経験した三人姉妹の末の私が、一番心配をかけたように思う。

 退職当日、残務整理に追われ深夜2時半に帰宅。母からの手紙がダイニングテーブルに置かれていたが、階下での私の物音からか、母が降りてきた。

 「14年間お疲れさまでした」と小さな母が背伸びをするように私を抱きしめた。

 平日の昼間、お風呂場で3度目のカット。感謝を込めて母の髪を切った。

 たわいない話をする、ゆったりとしたこの時間が、この先も幾度となく訪れることを祈りたい。

 次回はもっと腕を上げよう。

吉野薫子(53) 東京都練馬区

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