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【話の肖像画】女優・大地真央(64)(2)衝撃の舞台 女優の道へ奔走

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淡路島の野山と海で、毎日遊んでいた4歳の頃
淡路島の野山と海で、毎日遊んでいた4歳の頃

 《兵庫県・淡路島出身。夏は毎日、近所の瀬戸内海で泳ぎ、冬はスキーをする野生児のような子供だった》

 夏は日焼け、冬は雪焼けで真っ黒でした。泳ぎ疲れて飲む、ショウガの入ったあめ湯の味が、今も忘れられません。私は3人姉妹の末っ子で、子供のころは舞妓(まいこ)さんやバスガイドさんに憧れました。次に歌手のバックダンサーときて、最後は女優です。

 上の姉とは11歳、下の姉とは9歳離れていましたから、おしゃまで小さいころからお芝居ごっこが好きでした。タオルケットを腰に巻き、ドレス姿のお姫様の気分で、クルクル踊っていました。変身願望が強い傾向はあったものの、田舎の元気な普通の子でした。

 《女優になりたい、という漠然とした夢は中学生のとき、確固とした目標になる》

 義兄がアマチュア劇団に所属していて、その舞台に衝撃を受けたんです。しかも演技ではなく、照明効果に驚いてしまった。地元の公民館で行われた舞台で、今から見れば笑ってしまうくらい、簡素な機材を使っていたと思いますが、真っ赤な夕焼けや、さわやかな青空が照明一つで表現でき、舞台上に異次元が生まれていた。初めて舞台に接した私は、あの魔法のような空間の住人になりたい、と熱望しました。

 さらに中学2年の夏、ドラマ「刑事コロンボ」の吹き替えで知られた俳優、小池朝雄さんの劇団が、淡路島に合宿にいらっしゃって、実家の空き家を提供したんです。本物の俳優さんに私は興奮し、意を決して小池さんに「女優になりたいです」と訴えました。小池さんから「中学に演劇部はあるの」と聞かれましたが、当時はありません。でも私は、その場で「作ります!」と宣言し、母校・洲浜中学初の演劇部が誕生しました(笑)。女優への足掛かりを求め、少女雑誌のアイドル募集企画にも応募しました。最終審査まで残りましたが、父に大反対され、断念せざるを得ませんでした。

 《末娘の大地さんを42歳で授かり、特別にかわいがっていた元職業軍人の父親は、「芸能界など、とんでもない」という考えだった。唯一許してくれたのが、宝塚音楽学校の受験だった》

 父の戦友に宝塚ファンの方がいらして、入れ知恵をしてくれたのです。父は、女性だけで「軍隊のように厳しく、安心して預けられる」宝塚の受験だけは、やっと認めてくれました。中学3年の後半4カ月間、毎週末、片道3時間かけてバレエと声楽を宝塚まで習いにいきました。今は淡路島も橋で本州とつながっていますが、当時は洲本港から船でした。

 《結局、宝塚の舞台を一度も見ることなく受験し、宝塚音楽学校に見事、一発合格。第59期生として、タカラジェンヌの道を歩み始める》

 入学成績は49人中42番でした。同期には、バレエを10年以上やってきた人、ピアノでリストを弾ける人もいた。初心者の私は太刀打ちできず、入学後は苦労しました。でもみんなが一から始める演劇や、タップダンスの成績は良かったんです。放課後、寮の門限の午後10時まで個人レッスンに通い、必死でした。2年間の音楽学校で、卒業成績は25番まで上がりました。(聞き手 飯塚友子)

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