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【勇気の系譜】中村哲さん アフガン復興「希望の人」

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中村哲さん(手前左)が緑地に作った果樹園を訪れたレシャード・カレッドさん(同右)。果樹園には、大きなザボンが実っていた=2014年、アフガニスタン・ジャララバード近郊(レシャードさん提供)
中村哲さん(手前左)が緑地に作った果樹園を訪れたレシャード・カレッドさん(同右)。果樹園には、大きなザボンが実っていた=2014年、アフガニスタン・ジャララバード近郊(レシャードさん提供)
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 新型コロナウイルスの猛威にさらされた中で、感染の危険を顧みず治療にあたった医療従事者を世界が拍手でたたえた。医師は人の命だけでなく世界を救う、というみなの思いが形になった瞬間だ。誰もが押し寄せる所なら誰かが行く。誰も行かない所でこそ、我々は必要とされる-。この信念を基にアフガニスタンで復興事業に携わった非政府組織(NGO)「ペシャワール会」現地代表、中村哲もまた、医師として一人の人間として、他者のために人生をささげた。(江森梓、石川有紀)

 知力、胆力、判断力、スケール感のある人であり、『良心』を生きてきた人だった

 40年あまりをともに過ごした同会会長の村上優(まさる)(70)は、大学の先輩だった中村を「哲ちゃん」と慕い、同じ医師として尊敬の念を持ち続ける。

 始まりは、中村が登山隊付き医師として、アフガンとパキスタンに広がる山脈の遠征へ参加した1978年。結核を患う青年と出会った。十分な医療設備はなく、薬も手に入らない。

 登山隊付き医師は、現地住民を診察するという役割も担っていたが、持参した薬は隊員用であり、哲ちゃんにはその欺瞞(ぎまん)ともとれる行為が許せなかった

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 「結核の薬を用意できんか」。翌79年、村上は中村から声をかけられ、同地を訪れた。

 道中、満天の星を見上げながら議論したことがあった。

 この年に旧ソ連に軍事介入されたアフガンは貧しく、多くの人が感染症で命を落としていた。一方、日本では莫大(ばくだい)な金をつぎこんで延命治療が行われる。中村はそこに「命の不平等」があると主張し、村上は医師はいかなる状況でも助けることを前提に尽くすべきだとした。

 人がどんどん死んでいく不条理に対する怒り。それが彼の本質だった。不条理に、中途半端に関わっていくわけにはいかないと思ったんでしょう

 83年、中村は村上らとペシャワール会を立ち上げ、翌年にパキスタン・ペシャワルの診療所へ赴任した。当時は300万人を超えるアフガン難民が押し寄せていた。

 診療活動は紛争により中断される一方、不安定な政情下で干魃(かんばつ)が一挙に深刻化し、アフガンでは国民が飢えに苦しんでいた。仲間の反対を押し切り、哲ちゃんが用水路を造ると言ったときは、僕もできるのかなと、不安がありました

 「食料が作れなかったら命は救えない」。2003年、中村は砂漠化したアフガン東部ジャララバード近郊で用水路建設に着手し、活動は復興へと進み始めた。独学で挑み、7年後に全長25キロのマルワリード用水路を開通させた。

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