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【話の肖像画】セブン&アイHD名誉顧問・鈴木敏文(87)(2) 政治家めざした青年期

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小県蚕業高校3年の修学旅行で大阪城を訪問(右から2人目)=昭和26年ごろ
小県蚕業高校3年の修学旅行で大阪城を訪問(右から2人目)=昭和26年ごろ

 《昭和7年、長野県東部、坂城町の地主の家系に生まれた》

 父親は農協の組合長や町長を務めていて、家業は農家。人を多く雇い、田畑を貸していた。きょうだいは多くて、生まれたのは10人。僕が生まれる前に兄と姉が子供のころ亡くなったから、8人きょうだいで僕は7番目。母親は東京の女学校を出て、戦時中は婦人会などをやりながら、従業員を使って家事全般を切り盛りしていた。非常に勉強家でね。暇さえあれば原稿を書いたり、本を読んだり、地元放送局のラジオ番組に出たり。昔の田舎の文化人だった(笑)。

 教育熱心なんだけど、「働かざる者食うべからず」。朝起きてから必ず、庭掃除や家畜の鶏の餌やりとか。しつけの一環で厳しくさせられてました。

 《多くの使用人に囲まれているが、極度のあがり症で引っ込み思案な性格だった》

 人前に出て話をするとか、学校の授業で先生に当てられて、本を音読するのは苦手だった。家では教科書がすらすら読めても、学校ではあがっちゃってね、十分に声が出ない。他のきょうだいはそういうことは平気だったけど、僕だけ引っ込み思案な性格だった。

 それと上のきょうだいたちは足が速くて、僕はどちらかというと足が遅い。割と背が高いのに足が遅いとか、「橋の下で拾われてきた子」とからかわれたりしてね、落ち込んでいたこともある。

 《20年、旧制上田中学(現・県立上田高)の受験に失敗。小県蚕業(ちいさがたさんぎょう)学校(現・県立上田東高)へ進学した》

 口頭試問であがっちゃった。先に試問を受けた小学校の同級生たちが教室の中で僕の様子を見ていて、「なんで答えなかったんだ」と後で言われたくらい。あがってしまって何を聞かれてるのか、十分理解できなかった。先生も家族も、受験に失敗するとは思ってなかった。小学校高等科在籍中に終戦となり、農家だったので「これからは農業と養蚕の時代だ」と思って、伝統ある養蚕が中心の学校を選び、養蚕教師の免許も取った。旧制から新制に教育制度も変わり、僕は中学と高校の6年間、同じ学校に通った。

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