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【本郷和人の日本史ナナメ読み】「京都=天下」説は妥当か(上)「奥州管領4人並立」の意味は

福島県会津若松市のシンボル、鶴ケ城の復元天守閣
福島県会津若松市のシンボル、鶴ケ城の復元天守閣

 だれしも故郷を愛する気持ちは持っていますし、そうした愛郷心に接したときには温かい気分に満たされる。だから出張先で「おいでやす。どちらから?」と尋ねられ「東京です」と答えた際に「まあまあ、えろう遠い田舎から」と返されても、面白いことを言うもんだなあ、と苦笑いしただけでした(実話)。でも学問的な話の中で、日本の首都は千年京都で根本の法は千年律令である、などと言われると、歴史研究者として、それはおかしいと違和感を表明しなくてはなりません。先月から、天下とは京都とその周辺を指す、という言説を批判していますが、問題点は共通しています。

 天皇という名称が一般的になったのは早くとも7世紀ごろと考えられますが、それ以前の呼び方は「大王」であり、詳しくは「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」でした。天下という言葉は、広く日本列島を指して用いられたのです。ですが、実際に大王なり天皇が列島全体を均一に支配できたのか、といえば、それはまったく違うわけです。古代朝廷は近畿地方を治める精度をもってしては、たとえば東北地方に対処できなかった。東北地方、すなわち「みちのおく」は、朝廷の手の届かぬ地域だったと考えた方がよい。

 はるか後の室町時代でも、状況は基本的には変わっていません。それは幕府の統治姿勢を見れば分かります。足利政権ははじめ、東北地方を束ねる奥州総大将という職を設けました。将軍の代理としてこの地域に臨むからでしょう、名門・斯波(しば)家の一員、斯波家長がその職に就きました。けれども彼は南朝方の北畠顕家との戦いで陣没。幕府は駿河・伊豆の守護を務めていた石塔(いしどう)義房を新たに任命します。石塔は南朝勢力との戦いで活躍しますが、やがて動きが史料から消え、1345年には幕府は奥州管領として吉良貞家と畠山国氏の2人を奥州に送り込みました。

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