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【話の肖像画】柔道男子日本代表監督・井上康生(42)(3)つらくても貫いた父の教え

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 《小学6年で全国大会を2連覇後、平成3年4月、宮崎市立大宮中学に進学。中学3年のとき、全国大会で男子78キロ超級をオール一本勝ちで制覇。全国にその名が知られていく》

 中学生になると、宮崎県内には同じ学年でなかなか張り合える相手がいなくなり、兄が通っていた高校で稽古を積ませていただくようになりました。兄たちの時代は全国トップクラスの強豪でしたから、私も同じ高校に進学するイメージを持っていただいていたと思います。しかし、高校1年のときは上級生もいますから周りにある程度の層はあっても、2年、3年と学年が上がれば、間違いなく自分自身の成長が行き詰まっていくことがわかっていました。自分は甘ちゃん的な部分もあったんですよ。そういうのを父や母は見抜いていたと思います。

 《進学先に選んだのは昭和59(1984)年ロサンゼルス五輪無差別級金メダリストで全日本選手権9連覇の山下泰裕(日本オリンピック委員会会長)らを輩出した神奈川の名門・東海大相模高だった》

 父が現役時代に戦ったり、職場でお世話になっていた先輩が、高校の監督だった林田(和孝)先生と東海大で同級生という縁もありました。それでスカウトという形で宮崎へあいさつに見えられました。私自身は高校では個人戦はもちろん、団体戦でも全国優勝したいと意欲も持っていました。自分を高めるためにも東海大相模高へ進学することを決めました。

 しかし、地元の柔道関係者の方々からすれば、なんで宮崎から出ていくんだという不満があったことも事実でした。今なら大人の事情もわかりますが、当時の私は「なんで好きなところにいっちゃだめなのか」と理解できなかったのです。地元でこれまで通りの練習ができなくなってしまい、父が「心配するな」と稽古場所を探してきてくれて、県内の警察署や刑務所の道場を転々としていました。父に助けられましたね。

 《宮崎を離れ、東海大相模高に入学する》

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