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【100年の森 明治神宮物語】第1部「誕生」

国立競技場(手前)の向こうに広がる明治神宮外苑の施設群=令和元年11月29日(本社チャーターヘリから、桐山弘太撮影)
国立競技場(手前)の向こうに広がる明治神宮外苑の施設群=令和元年11月29日(本社チャーターヘリから、桐山弘太撮影)
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「大風呂敷」で聖地を構想

 真新しい国立競技場の向こうに、神宮球場、聖徳(せいとく)記念絵画館、明治記念館などの施設が広がっている。ヘリから見た現在の明治神宮外苑。国立競技場も戦前は外苑の一部だったことを思うと、本殿がある内苑とは別に、この外苑を構想した当時の人々のスケールの大きさに驚かされる。

 「阪谷さんの大風呂敷、と皆さんには言われていたそうです。明治神宮の外苑にしても、関わった地下鉄の事業にしても、芳郎さんの話は大きすぎると…」

 蔵相や東京市長を歴任した阪谷芳郎のひ孫、綾子さん(60)はそう語る。芳郎は渋沢栄一の娘婿で、後に明治神宮奉賛会の理事長として、外苑造営の責任者を務めた人物だ。

 孫の芳直(綾子さんの父)が「東京市長日記」に寄せた文章によると、南満州鉄道でホテル展開(後にヤマトホテルとして実現)を訴えた芳郎が外苑に取り組んだ際、「また阪谷がバカでかいものを造り始めた」と言われたという。だが戦後、東京五輪が近くなると「なぜもっと規模の大きいものを造っておかなかったのか」という声が聞こえてきたとも記している。

 崩御から3週間後の大正元年8月20日、阪谷らは後の明治神宮を先取りした「覚書」をまとめている。いわく、(1)神宮を内苑と外苑で構成する(2)内苑は国費で、外苑は献費で奉賛会が造営(3)場所は代々木と青山練兵場が最適(4)外苑には記念宮殿、陳列館などを建設する-。内外苑構想は阪谷一人の仕事ではないが、そこに「大風呂敷」の片鱗(へんりん)を見ることは可能だろう。

 愛知淑徳大大学院の西尾林太郎教授は「阪谷には明治天皇への崇敬だけでなく、東京市を全国の中枢にする構想があった」と指摘する。崩御半月前に市長に就任した阪谷は、インフラ整備を進めると同時に欧米の議事堂のような都市の精神的シンボルとして明治神宮を位置づけようとする。

 「今で言う『聖地』が大都市には必要と考えていたのでは」と西尾氏。予期していなかった崩御は、阪谷にとって東京を革新する千載一遇の機会でもあった。

 ところで、渋沢らが明治天皇の陵墓から神宮造営にかじを切ったことが新聞などで報じられると、国民からは「神宮以外の記念方法」「東京以外への造営」を望む声も生じていた。次回、別の可能性にも言及したい。

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