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【100年の森 明治神宮物語】第1部「誕生」

二重橋前の広場で明治天皇の平癒を祈る人々=明治45年7月(秋好善太郎編「日本大紀念写真帖」東光園、大正元年、国会図書館所蔵)
二重橋前の広場で明治天皇の平癒を祈る人々=明治45年7月(秋好善太郎編「日本大紀念写真帖」東光園、大正元年、国会図書館所蔵)
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二重橋周辺は「特別な場所」

 「東京に明治天皇の陵墓をつくってほしい」。日本橋区民の声を受けた渋沢栄一は、大正元年8月1日、阪谷芳郎東京市長、東京商業会議所(当時)会頭の中野武営と皇居近くの同商議所に集まっている。崩御から2日後のことだ。

 地上30階建てビルに入る現在の東京商工会議所と場所は同じだが、当時は花崗(かこう)岩とれんがの外観が目立つ2階建てだった。近くには楠木正成の銅像がすでに建ち、皇居の二重橋も近い。当時、この「場所」に特別な意味があった。舞台を明治神宮造営地の代々木に移す前に、これに触れたい。

 「商議所はもともと民意を結集させるために作られた場所。区民から陵墓を求められた渋沢は、意識してここに話を持っていったのだろうと思う」。渋沢史料館(東京都北区)の井上潤館長はそう話す。

 商議所の前身、東京商法会議所は明治11年に設立された。そのきっかけは不平等条約の改正交渉だ。渋沢の「雨夜譚会談話筆記(うやたんかいだんわひっき)」によると、蔵相の大隈重信が「そんなことは日本の世論が許さぬ」、英公使パークスが「あなた方が世論世論と言われるが、一体日本の世論とは何ですか」という応酬があり、社会の未熟さを突かれた伊藤博文は「日本に世論の出場所を作る必要がある」と、商法会議所を渋沢に作らせたという。

 二重橋も、民意の特別な場所になっていた。

 7月20日に明治天皇の病気が公表されて以降、二重橋前の広場には年齢や身分に関係なく大勢の人々が昼夜集まり、回復を祈った。

 新聞には土下座する老婦人の写真などが載り、宗教の壁を越えて「アーメン」の声も聞こえたという。

 二重橋に人々が殺到したことについて、九州産業大の平山昇准教授は「明治時代前半なら天皇に関心がない国民も多かったが、日清・日露戦争の勝利をきっかけに『天皇のおかげ』という意識と尊敬心が非常に高まっていたのが大前提」と話す。その上で、(1)当時の東京に国家的神社がなかった(2)日露戦争戦勝祈願の行列が行き慣れたルートだった(3)宗教的に開放的な場所だった-と要因を挙げる。

 民意の奔流の中で当局への陳情に動き出した渋沢らは、ほかならぬ明治天皇自身が陵墓を京都・桃山に望んでいたのを知ることになる。ここで浮上するのが、陵墓に代わる「神宮」の造営である。

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