PR

ライフ ライフ

【100年の森 明治神宮物語】第1部「誕生」

森の参道を初詣に向かう参拝者ら=令和2年1月1日午前、東京都渋谷区の明治神宮(佐藤徳昭撮影)
森の参道を初詣に向かう参拝者ら=令和2年1月1日午前、東京都渋谷区の明治神宮(佐藤徳昭撮影)
その他の写真を見る(1/4枚)

語り継ぐ明治の遺跡

 初詣の人々が、森に囲まれた参道を今年も埋め尽くした。約318万人(公式発表)が新年の祈りに足を運んだ、東京・代々木の明治神宮。明治天皇と昭憲皇太后を祭る神宮は今年11月、鎮座100年の節目を迎える。その物語を追う連載の初回は、私たちが昨年経験した「代替わり」と、注目された「渋沢栄一」の2つの視点から、神宮誕生前夜を眺めたい。

 未明の新聞号外が、明治が終わったことを人々に知らせた。明治天皇崩御が発表されたのは、明治45(大正元)年7月30日午前1時20分。ご病気が明らかになったのは、わずか10日前だった。ラジオもなかった当時、新聞配達員は号外を「戸毎(ごと)に叩きて配布」し、人々は「戸を押開くる間も遅し」と受け取ったという(大阪朝日新聞)。

 この日、東京・日本橋を歩いた時事新報の記者は「道行く人にも悲しみの色がある」と書いている。日本橋には当時、渋沢の事務所があった。同日、ここで行われた陳情が、明治神宮造営の発端になる。

 「私は、あの神宮は明治の遺跡だと思っています」

 渋沢のひ孫で渋沢栄一記念財団理事長の渋沢雅英さん(94)は、栄一が深く関わった明治神宮を時代の象徴として見ている。

 「お庭は東京で一番きれいだし、国粋主義的でもなく、明治天皇を自然に評価している。外苑の野球場や絵画館なども親しまれている。大がかりな施設ではあるけれど、明るい感じがするんです。明治という時代が、そういう時代だったのでしょうね」

 雅英さんは昨今の渋沢ブームについて「財界人としての活動以外が注目されるのはうれしい」と話す。「あの人は、日本のためになる、社会のためになると思ったら、自分に関係なくても一生懸命やる人です」

明治の終焉惜しむ

 「ご陵墓をぜひ関東におとどめ申したい。これは日本橋全区民の希望である」

 渋沢事務所での陳情の主は、日本橋区会議長の柿沼谷蔵だ。願いがかなわなければ区民は「御柩(おひつぎ)の列車の通る線路に轢死(れきし)してでも御引止め申す」と言っているという。歴代天皇の陵墓は近畿にあるが、東京が初めて迎えた天皇の陵墓は、なんとしても東京に-。「なるほど、そういわれてみるともっともである」と渋沢は応じる。同じ日、東京市長の阪谷芳郎のもとにも麹町区会議長らが訪れている。

 「たくさんの人が明治という時代が終わることを惜しんだ」と雅英さん。この時点で市民が求めたものは、陵墓だった。後に神宮が建つ代々木の地には、まだ荒れ地が広がっている。

 神宮の森はゼロから人の英知がつくり出し、造営は地方から上京した曽祖父らの世代の手で行われた。空襲による焼失と復興。神宮球場の名勝負も、森の生き物たちも明治神宮が抱える物語の一部だ。日本の近代と歩んだこの「豊穣(ほうじょう)な森」を、これから読み解いていきたい。

続きを読む

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ランキング

ブランドコンテンツ