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【ゆうゆうLife】家族がいてもいなくても(627)息をするのも面倒

 相変わらず部屋の整理をしている。目下は、那須に戻ってクローゼットの整理中。春を待つ間に、「荷物半減計画」と称して、取り組んでいるのだ。

 けれど、現実はままならない。暇なはずの冬なのに、体調がいまいちだったり、やる気が低下したりで成果が上がらない。

 それで、いろいろ考えてみた。

 一つは、もはや自分で自分を支える日常、顔を洗ったり、御飯(ごはん)を食べたり、メールに返事をしたり、そういうことをこなすだけで精一杯(せいいっぱい)な年頃になっちゃったのかなあ、ということ。

 思えば、老父とふたりで暮らしていた頃、彼が言っていた。

 「お前な、年をとるということは、息をするのも面倒になるってことなんだよ」と。

 その頃は「なに言ってんだか」と笑い飛ばしていたけれど、今は、「なるほど」と思う。

 なにしろ、最近の私は、かなりとんでもない。

 ぼーっとして、頭の中でとりとめもなく自問自答をしたり、妄想したりしているだけで、なんら退屈することがないのだ。そればかりか、「これぞ究極の快楽だわねえ」という心境に至っている。

 そして、もう一つ。

 私には効率性とか合理性とかいう思考がゼロなのだ、ということにも気付いてしまった。

 たとえば、ものを整理するには、「今後、使うか使わないか」の判断が重要なのだそうだけれど、それができない。

 洋服で言えば、私には「着るか、着ないか」も「似合うか、似合わないか」もどうでもいい。「それを持っていたいか、どうか」、それが判断の重要な基準なのだった。

 そもそも他人にはどうでもいいものの中にこそ、私の物語が刻まれているわけだし。

 たとえば、クローゼットにある「父が仕事でヨーロッパに行った時の初めてのお土産のぼろぼろの人形」なんてものが捨てられない。

 こういうものを「持っていなくていいや」と自分が思えるのはいったいいつのことやら、と途方に暮れてしまう。

 主、去りし後も、ものの中には、その人の記憶が生きている。このままでは、父の言う「息をするのも面倒になる」まで、この人形を私は持っていることになりそうだなあ、と思う。

 世間はなぜに「終活」だなんて酷なことを、まるで正義のように言い立て始めちゃったのだろう、と思う。

(ノンフィクション作家・久田恵)

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