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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第4章 現代に生き続ける「楠公さん」13 日本遺産に込めた河内の思い

(上)正成父子にゆかりの深い観心寺の山門(いずれも恵守乾撮影)
(上)正成父子にゆかりの深い観心寺の山門(いずれも恵守乾撮影)
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 全国の神社で祭られ、私立学校の教育精神で今も生きる楠木正成(まさしげ)・正行(まさつら)父子で地域おこしができないものか。そう考えたのは大阪府河内長野市の島田智明市長である。

 同市は、少年時代の正成が学んだ古刹(こさつ)・観心寺を抱える「楠公さん」ゆかりの自治体。「桜井の別離」で父・正成と別れ、敗死して帰って来た父の首を見て死のうとした正行を、母の久子が諭した場所も観心寺。これだけの歴史の名所を観光などの求心力にしたいと考えるのは「自治体経営者」としては自然な発想だった。

 昭和29年に6町村が合併し、人口約3万1千人で発足した同市は、大阪のベッドタウンとして宅地開発が進み、平成12年には約12万3600人にまで人口が膨らんだ。しかし、その後は人口減少が始まり、令和元年12月末現在で約10万4500人。市勢の維持のためにも「市の中核」が必要だった。

 平成28年夏に初当選した島田市長が着目したのは、文化庁が始めた日本遺産の認定事業だった。29年には「摂津・河内に生き続ける楠公さん~中世のサムライヒーローが遺(のこ)した聖地を巡る旅~」で申請した。隣接する正成の本拠地、千早赤阪村や正成の終焉(しゅうえん)の地、湊川のある神戸市などと連携しての申請は、正成の歴史を地元の資産としてとらえるという意味では画期的なものだった。しかし、落選した。個人に特化した案は制度の趣旨にそぐわないというのが文化庁の判断だった。

 河内長野市の申請は翌年も、さらに翌々年も続いた。文化庁の指摘に従わなければ認定はかなわないので、正成の存在を薄める作業は行ったが、島田市長をはじめ担当職員らは「風」の変化は感じ取っていた。それは申請内容の相談に訪れた大阪府の幹部職員が口にした言葉が象徴していた。

 「大阪で歴史上の人物と言えば、何と言っても太閤さん(豊臣秀吉)や。でも太閤さんはもとは愛知の人やからな。純粋な大阪の偉人と言えば、楠公さんになるなあ」

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