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【お城探偵】山城に眠る「おまん塚」の謎 佐賀県唐津市・岸岳城 千田嘉博

松浦党の波多氏が拠点とした岸岳城に残る石垣(千田嘉博撮影)
松浦党の波多氏が拠点とした岸岳城に残る石垣(千田嘉博撮影)
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 佐賀県唐津市の岸岳(きしだけ)城は標高320メートルの険しい山上にある。途中までは車で行けて、車を降りてからも整備した林道が続くので、ハイキングの装備があれば支障はない。うっそうと茂る木々の中を歩くのはなかなか神秘的である。

 この城は中世以来、東アジアの海運に秀でた松浦党の波多(はた)氏の城で、臨時の詰城から戦国期に居城に発展したと推測される。波多氏は1564(永禄7)年に重臣にいったん、城を奪われたが取り返した。波多氏が大名として突出していたのではなく、有力な家臣と連合的な権力を構成していた様子がうかがえる。1587(天正15)年に城主の波多親(ちかし)は天下人の豊臣秀吉から鹿児島の島津氏攻めへ出陣するよう指示された。

 親は命令に従わず減封の処罰を受けた。このとき親は政治情勢に戸惑っていたように思う。家臣や地域との関係を壊して変わらなくては、大名ではいられなくなる。その選択は自分と地域にとって幸せなのか。

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 しかし、親の思いは、時代の流れに飲み込まれていった。秀吉は文禄・慶長の役を決断し、親の領地の肥前名護屋に巨大な城を築いて出撃基地にした。その胸中は複雑だっただろう。

 親も文禄の役に出陣したが、卑怯(ひきょう)なふるまいがあったとして、1593(文禄2)年に秀吉から改易された。結果として親は近世大名になり損ねたのである。波多氏が土地を追われた後、寺沢広高が新たな領主としてこの地に入った。広高は佐賀県唐津城を居城に定めたので、岸岳城はこのとき廃城になったと伝えられてきた。

 岸岳城を訪れると南北800メートル以上にわたって城の遺構がつづき、中心部はみごとな石垣の城である。山の岩脈から石材を切り出したといっても、これほど厳しい山の上に大規模な石垣を築いたのには驚く。石垣の積み方をよく観察すると、文禄・慶長期にできたと結論できる。寺沢氏が唐津城を居城にした後も岸岳城は廃城にせず、軍事拠点として大改修を続けたと評価を改めるべきだと思う。

 ただし、岸岳城には謎が多い。たとえば本丸西側には南へ向けた大手門跡があるが、門の先の大手道は森の中に消えてたどれず、今後の調査が期待される。

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