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【教科書が教えない 幻の堺幕府】拠点どこ? 三好の居所か“将軍”の御座所か

 だが、元長が実質的に政権を取り仕切っていたとはいえ、軍司令官にすぎない。「将軍」義維の住んだ御座所(ござしょ)こそ「幕府」である-ということで、顕本寺説は近年、否定的にとらえられている。菅原住職も「残念ながら、幕府の所在地は当寺ではなかったようです」と話す。

「将軍」宅は四条道場

 では、義維はどこに住んでいたのか。堺市博物館の元学芸員、吉田豊さんによると、当時の文献に散見される義維に関する記述をたどった結果、「四条道場(しじょうどうじょう)」と呼ばれていた引接(いんじょう)寺(現在は廃寺)が有力だという。16世紀前半の畿内の戦乱を描いた軍記物「細川両家記」には、堺幕府が崩壊した天文元(1532)年6月のできごととして「御所様(義維)も四条の寺より顕本寺へ御成有りけれども…」という記述がある。

 四条の寺とは本来、京都・四条京極付近にあった時宗四条派の本山・金蓮寺の別称、四条道場のことを指す。室町幕府の帰依を受けて栄えたという足利将軍家ゆかりの寺で、同派の最有力寺院である堺の引接寺だけは本山と同じ「四条道場」を名乗ることを許されたという。こうしたことから、細川両家記に残る「四条の寺」は引接寺を指すと考えられている。

住吉大社の御祭神・神功皇后と大鳥大社の御祭神・日本武尊を祭っている宿院頓宮。大坂夏の陣前、この付近に引接寺があったとされる=堺市堺区
住吉大社の御祭神・神功皇后と大鳥大社の御祭神・日本武尊を祭っている宿院頓宮。大坂夏の陣前、この付近に引接寺があったとされる=堺市堺区
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 現在、引接寺跡を示す観光案内板が堺区少林寺町東の少林寺小学校前に掲げられているが、当時はもっと北側にあったようだ。吉田さんによると、住吉大社の御旅所(おたびしょ)・宿院頓宮(しゅくいんとんぐう)(同区宿院町東)近くにあったと推測される。昭和5年に発行された「堺市史」(第7巻)にも、引接寺が現在の堺区宿院町西あたりに広大な境内地を有している-と記されている。

「管領」晴元宅は不明

 義維の御座所であった引接寺は、元長が居を構えていたとされる顕本寺からは歩いて数分という至近距離にあった。吉田さんは「政治の実務を行う行政官らが詰める政庁のような施設も両寺の近くにあったと思われます。このエリアが政権の中枢だったと言ってもいいでしょう」と話す。

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