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【話の肖像画】福岡ソフトバンクホークス球団会長・王貞治(79)(7)挫折が生んだプロへの決断

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昭和32年、春の選抜高校野球で優勝投手に。地元で凱旋パレードに臨んだ
昭和32年、春の選抜高校野球で優勝投手に。地元で凱旋パレードに臨んだ

 《早稲田実業高(早実)では1年生の夏から甲子園へ4季連続出場した。2年生になった昭和32年、春の選抜で初優勝、夏は寝屋川高(大阪)相手にノーヒットノーランの快挙を達成する》

 本所中学時代から「高校生レベル」で野球をやっていたので力がついていたのかもしれません。早実に入学してわずか10日くらいでバッティングをさせてもらったし、ピッチングもやらせてもらった。ユニホームも「背番号10」をもらった。控え投手の1番手で、デビュー戦は都大会決勝戦(5月3日)、その年の選抜に出場したばかりの日大三高相手に4-0の完封。うれしさのあまり、ベンチ前でグラブを投げて喜んだら、見に来ていた兄貴(鉄城さん)に怒られた。

 「お前、相手の気持ちを考えたことがあるのか」。父の教えなんです。中国から異国の日本にやってきて、いつも周りに気遣って生きてきた。だから僕もそれ以来、感情を表に出さないようになったのです。

 甲子園には高校1年生の夏から4季連続で出場しました。1年生の頃はコントロールに難があったが、総監督の久保田高行さんからノーワインドアップ投法を勧められてピッチングは格段に良くなりました。高校2年生の春にはエースで4番、指のマメを潰しながら投球を続け、早実として甲子園初優勝した。例の「血染めのボール」のときです。その年の夏の甲子園ではノーヒットノーラン。投手としてはその時がピークで、良い思い出ばかりでした。

 《大学進学希望から一転、プロ志望へ。きっかけは昭和33年夏、高校3年生の都大会決勝で明治高に延長12回表に4点を取ったが、その裏5点を取られて逆転サヨナラ負けをしたことだという》

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