PR

ライフ ライフ

【話の肖像画】福岡ソフトバンクホークス球団会長・王貞治(79)(6) 双子の姉…そして野球部の兄

前のニュース

監督時代に試合を観戦する母親の登美さん(右)と兄の鉄城さん =昭和62年10月、後楽園球場
監督時代に試合を観戦する母親の登美さん(右)と兄の鉄城さん =昭和62年10月、後楽園球場

 《双子の弟として生まれ、10歳上の兄を多忙な父親代わりに育った》

 僕は二卵性双生児でした。双子で生まれた姉(広子さん)に比べて小さく生まれた僕は、もしかしたら死ぬかもしれないと思われていた。昭和15年5月10日に生まれているのですが、役所への届け出は20日になりました。生後の様子をみるために10日遅らせたという。しかし僕が1歳を過ぎた頃、姉が亡くなったんです。

 とても不思議なことなのですが、それから僕はすごく元気に育っていった。だから小さい頃からよく母親から言われてました。「お前は“2人分の力”を持っているんだから。体も強くなったし、運もあるんだよ」。母親の言葉を信じて、すっかりその気になっていた。小学校に上がる頃には、わんぱく盛りでした。毎日真っ暗になるまで遊んでいました。思えばその後、高校の早稲田実業(早実)やプロに入っても、練習で苦になったことは一度もなかった。“2人分の力”というのはあったのかもしれませんね。

 《野球は“天職”という》

 小さい頃の遊びといえば、近所の仲間と路地や空き地でやった「三角ベース」の野球です。とにかくボールを追いかけるのが楽しかった。それから兄が慶応大学医学部に入学し、野球部に入った。おやじは仕事で忙しかったので、僕の面倒を見てくれたのが兄でした。だから大学の野球部の合宿にもよくついていって、球拾いなんかもして野球に熱中していました。

 僕は決してスポーツは万能ではないんです。腕相撲は弱いし、鉄棒では懸垂もできない、逆上がりも全くだめだった。走ることも得意でない。いま考えると野球だけですよ、飽きないのは。他のものは全て飽きちゃった。マージャンをやってもすぐに飽きたし、ゴルフをやってもそこまで熱中しなかった。何をやっても中途半端だったけど、野球だけは熱中してときめいてやっていた。選手のときも、監督のときも。これだけは自分でも不思議に思います。

続きを読む

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ランキング

ブランドコンテンツ