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【話の肖像画】福岡ソフトバンクホークス球団会長・王貞治(79)(5) 育ててくれた両親に感謝

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シーズンオフに家族旅行。左から母親の登美さん、父親の仕福さん、本人、恭子夫人
シーズンオフに家族旅行。左から母親の登美さん、父親の仕福さん、本人、恭子夫人

 《中国・浙江省の寒村生まれの父・仕福さんは日本に活路を求め、富山県生まれの母・登美さんと知り合って結婚。5人“兄姉”の末っ子で生まれた。東京・墨田区の下町で育てられた幼き日々…》

 僕が生まれた昭和15年はまだ米国との戦争が始まる前で、中国が戦地でした。当時の情報は正しくないかもしれないですが、(日本が)勝って勝っての時代。ちょうちん行列があって、ある意味国民も浮かれてというか妙な元気があった。そんな時代に生まれました。

 実家は中華料理店をやっていました。「五十番」という屋号です。さすがに小さい頃の記憶はないですが、聞けば東京大空襲(20年3月10日)で店も焼けてしまいました。その時、母は僕を背負って逃げ回ったそうですが、その間僕はずっと熟睡していたと後に聞きました。小さい頃からずぶとかったようです。

 記憶が残っているのは6、7歳頃からです。ちまたは戦後の物不足で食糧難だったが、おやじはすぐに店を再開していた。親は子供にひもじい思いをさせたくないという思いがあったのかもしれませんが、僕は食べることで苦労したことはなかったですね。

 おやじは中国人です。いわば“戦勝国”でしたから配給品でも恵まれていたようです。甘い物がなかった時代、チョコレートや砂糖もありました。どうやらいい扱いを受けていたらしいのです。たとえば船に乗っていても、船内は真ん中がロープで仕切られていた。日本人の区域はぎゅうぎゅう詰めなのに、外国人ゾーンはゆったり横になって寝られるくらいのスペースがあった。それくらい戦勝国と敗戦国には差があったらしいのです。

 《ひたむきな両親の姿が身近にあった》

 とにかくおやじはランニングシャツ1枚の姿で厨房(ちゅうぼう)の中で働いているのを覚えてます。あの頃は冷房もない。火を扱う仕事で朝から晩まで鍋を振って、すごく汗をかいていた。物がない時代だから買い出しにも行く。闇市です。たまに捕まったり、取られたりしたこともあったけどおやじはめげなかった。それをしないと生きていけない時代だった。家族のためにおやじは本当に体を張って生きていた人でした。

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