【日本人の心 楠木正成を読み解く】第4章 現代に生き続ける「楠公さん」 9 茨城に残る「正成の末裔」の矜持
〈吾家ハ其初メ楠七郎橘正季(まさすえ)ニ出ツ、吉野没落後、三河加茂郡野口村ニ移ル、野口姓ヲ称ス故以ナリ〉
自分たちは湊川の戦いで兄、正成とともに散った正季を祖先とすると説き、「長子雅夫ニ告グ 家名ヲ重ンジ」と結んでおり、雨情が楠木一族の末裔ということを強く意識していたのが分かる。雅夫の長女で資料館代表の野口不二子さんは「父は雨情から『小さな約束でも必ず守れ』と言われていたと聞きました」と語る。
家業の廻船(かいせん)業が傾き、全国を流浪する波乱の人生を送った雨情が一番大切にしたのが「童心」だ。「雨降りお月さん 雲の蔭(かげ) お馬にゆられて 濡(ぬ)れてゆく」(雨降りお月さん)など、庶民の目線で純真素朴な詩を生んだ雨情の根本には、正成の末裔という矜持(きょうじ)があった。=次回は来年1月10日に掲載します。
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■笠置神社
応永年間(1394~1428年)に楠木正成の孫、正勝が創建したと伝わる。正勝は南朝方だった結城一族を頼ってこの地に居を構えたが、協力を得られず、悲運の最期を迎えた。昭和15年、正勝の墓とされる場所を発掘したところ、腐食した二重の棺から太刀か鎧(よろい)が腐食した赤土、曲玉(まがたま)や古銭6枚などが出土したとの記録が残っている。
神社では正勝の従者の末裔という氏子たちによる例祭「旗上げ祭」(旧暦4月)と「強飯(ごうはん)祭」(同8月)が継承されている。近郊には南朝の伝承が多く残っており、県境を越えてすぐの福島県棚倉町の蔵光寺(ぞうこうじ)にある将軍地蔵尊は、この地に落ち延びてきた新田義貞の妻、勾当内侍(こうとうのないし)の守り本尊、地蔵菩薩を祭ったのが始まりとされる。