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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第4章 現代に生き続ける「楠公さん」 9 茨城に残る「正成の末裔」の矜持

笠置神社
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 常陸には南朝の足跡が多く残されている。その理由について、飯村さんは「南朝の有力武将、北畠親房(きたばたけ・ちかふさ)が常陸で活動したことが大きい」と話す。正成や新田義貞ら有力武将が討ち取られて追い込まれた南朝は延元3(1338)年、形勢逆転を図ろうと親房を2親王とともに海路、陸奥(東北地方)に派遣した。海難で常陸国東条浦(現茨城県稲敷市)に上陸した親房はここで北朝軍を迎え撃った。5年にわたる「常陸合戦」の始まりだ。

 親房が小田城(同県つくば市)での籠城中、戦の合間に書き上げたのが『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』だ。神話の時代から南北朝時代の後村上天皇まで天皇中心に歴史を綴(つづ)り、南朝の正統を訴える内容で、後世では歴史書と評価されるが、もとは東国武士に南朝への参加を説得するための書物でもあった。

 親房の必死の工作もむなしく、北朝の重鎮、高師冬(こうのもろふゆ)の切り崩しで、親房は失意のうちに南朝の拠点・吉野に帰還したが、「正統な天皇に忠誠を尽くす」という理想は残された。水戸史学会事務局長で植草学園短期大名誉教授の但野(ただの)正弘さんは「『大日本史』でも、親房の主張は高く評価されています」とする。

 南北朝という乱世で当時の武士たちが、一族を守るため有利な方につこうとする中、親房は理論で正統を訴えた。利を求めることなく後醍醐天皇に尽くした正成の生き方とも重なり、常陸国での南朝への尊崇は後世まで息づくことになった。

 茨城県には南朝、そして正成への忠誠を守り続けた作詞家がいる。「七つの子」や「シャボン玉」「赤い靴」など今も親しまれる童謡を作詞した野口雨情(うじょう)だ。明治15(1882)年に北茨城市磯原町で生まれた雨情の生家は現在、「野口雨情生家資料館」としてゆかりの品々とともに保存されている。資料館入り口付近には大正6年に雨情が長男、雅夫に書いた手紙が展示されている。手紙は冒頭、こう記される。

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