【日本人の心 楠木正成を読み解く】第4章 現代に生き続ける「楠公さん」 9 茨城に残る「正成の末裔」の矜持

茨城県最北部・奥久慈の大子(だいご)町上郷に「笠置山(かさぎさん)」と呼ばれる山がある。奥深いこの山の頂(いただき)に地元の人々が約600年、守り続けている小さな祠(ほこら)がある。後醍醐(ごだいご)天皇を祭る笠置神社だ。
笠置山(やま)といえば京都が有名で、鎌倉時代末期の元弘元(1331)年5月、倒幕計画が漏洩(ろうえい)して都を追われた後醍醐天皇が臨幸した霊山だ。天皇がここで見た「常磐木(ときわぎ)の夢」によって楠木正成(くすのき・まさしげ)は召され、赤坂城や千早城の奮闘で倒幕に導いた。武家政治から天皇による「建武の新政」へ歴史が動く発端の舞台となった。
この歴史にあやかり、奥久慈の山を笠置山と命名して神社まで建立した人物は正成の孫、正勝(まさかつ)と伝えられ、神社近くには墓も残されている。
徳川光圀が編纂(へんさん)を始めた歴史書『大日本史』などによると、正勝は正成の三男である正儀(まさのり)の嫡男で、父が北朝に帰順し、その後に南北朝が和睦した元中(げんちゅう)9(1392)年以降も南朝方として戦い続けた。その最期は定かでなく、奈良県十津川村や大阪市東淀川区にも墓が残っている。
最後まで南朝のために戦った正勝は、足利方との壮絶な戦いで散った正成、正行(まさつら)父子の遺訓を最も受け継いだとされ、忠誠を追賞して大正4(1915)年に正四位が贈られた。
正勝はなぜ常陸国(茨城県)に落ち延び、「南朝の聖地」を再現させたのか。水戸史学会理事の飯村尋道(ひろみち)さんは「笠置山近くの八溝山(やみぞさん)から採れた金が後醍醐天皇に献上されるなど、常陸国は南朝色の強い土地でした。正勝はここに笠置山を再現させ、捲土(けんど)重来を図ったのでしょう」と語る。
笠置神社の氏子たちは正勝に従って移り住んだ南朝方の武士の末裔(まつえい)という。「ご神木にすむムササビの鳴き声が、夜ごと山に響きます。氏子さんたちは『南朝復興を成せなかった正勝の義憤の叫びだ』と話しています」と飯村さんは話している。