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【ビブリオエッセー】霧に奪われた記憶をめぐる旅 「忘れられた巨人」カズオ・イシグロ著 土屋政雄訳(ハヤカワepi文庫)

 偏西風に乗って流れてくる海霧は、当地サンフランシスコの気候を大きく左右する。夏には周囲がどんなに暑くとも大変に過ごしやすい気温になる。それに冬でもあまり寒くはない。年寄りが暮らすのにこんないいところはない。小さなアパートに暮らして、すでに30年を越えた。そのまま、終(つい)の住処(すみか)となる。

 毎朝、その霧の中を、金門橋を遠くに眺めながら走るのが目下の楽しみである。

 この本は“霧”を手がかりに人が過去を忘れてしまうことをめぐる物語だ。ノーベル文学賞受賞者、カズオ・イシグロによる十年ぶりの長編小説で、今のところ最新作である。舞台はアーサー王亡き後のブリテン島、人々の記憶が霧に奪われた世界。私と同年代と思えるアクセルとベアトリスの老夫婦が遠方に住む息子を訪ね、記憶をたどる旅の物語となっている。

 土屋政雄氏の日本語訳はよくこなれていて、実に読みやすい。それに原書の文章が実にいい。端正なのだ。近くにあるグリーン・アップルという古本屋で著者のサイン入り初版本を見つけた。これは大切にしまっておく。もう1冊を求めて読んでいる。隣にはもちろん日本語訳も忘れない。何度読み返したことだろう。こんな一文に出会った。

 「神ご自身が多くを忘れてしまったのではないか」

 ここに人が物事を忘れてしまっていることの根拠を探っている。人が年を取るにつれ忘れっぽくなるのは神のなされたことに従っているのだ、と。アクセルは「霧のおかげで傷が癒えたのかもしれない」と語る。忘れることもまた、救いなのかもしれない。

米サンフランシスコ市 冨永明彦 72

 【ビブリオ・エッセー募集要項】本に関するエッセーを募集しています。応募作品のなかから、産経新聞スタッフが選定し、月~土曜日の夕刊1面に掲載しています。どうか「あなたの一冊」を教えてください。

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