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【本郷和人の日本史ナナメ読み】戦国の小笠原氏(下)

 寛永9(1632)年、加藤清正の子である肥後の大大名、加藤忠広が改易されました。そのあとに熊本城に入ったのは細川忠利。この人の妻は小笠原氏で、忠真の1つ下の妹。すると、細川氏の異動に伴い、忠真は明石10万石から、細川氏の旧領・豊前小倉へ。石高は5万石加増の15万石。ついでに龍野の長次も2万石増やしてもらって、豊前・中津8万石に。引っ越しがたいへんです。

 このあと小笠原本家は譜代大名、小倉15万石城主として続き、幕末まで続いていきます。九州の玄関口を押さえて、「九州探題」などとも呼ばれました。一方、中津の小笠原家は暗君が続いて、途中で4万石に減らされ、さらに跡継ぎがいなくて無嗣改易の憂き目を見ます。ところがここで、「祖先の勤労」(秀政・忠脩父子の戦死)により播磨・安志(あんじ)(兵庫県姫路市)に1万石で立藩を認められました。ただし、安志藩主はのちに小倉の小笠原本家から入ったために、小倉の分家のような扱いを受けるにいたったといいます。それでも明治維新まで、何とか家を安志の地で受け継いでいったのです。

 ちなみにあの宮本武蔵の養子の伊織は島原の乱などの功績で4千石を得て、忠真を支えました。彼の家は小倉藩の筆頭家老として続いていきます。

 次回は1月9日に掲載します。

 ■元姫路藩主、池田光政

 1609~82年。備前岡山藩主。江戸前期を代表する名君として知られる。教育の充実と質素倹約を旨とし「備前風」といわれる政治姿勢を確立した。全国初の藩校・花畠教場を開校し、寛文10(1670)年には日本最古の庶民の学校である閑谷学校(岡山県備前市)も開いている。正室は本多忠刻と千姫の子、勝姫であった。

【プロフィル】本郷和人

 ほんごう・かずと 東大史料編纂所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

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