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【本郷和人の日本史ナナメ読み】戦国の小笠原氏(下)

 大坂の陣から2年後、本多忠政は伊勢・桑名10万石から播磨・姫路15万石に栄転。忠政の嫡男の忠刻のもとには秀頼未亡人の千姫が化粧料10万石持参で嫁いできており、忠刻の弟の政朝も播磨・龍野5万石に封じられ、姫路の本多家は大繁盛。小笠原忠真も本多ファミリーの一員として、松本から播磨・明石10万石に加増転封しています。

 こういうかたちで、一門を隣接して一定地域に配置する、という措置を幕府はしばしば取ります。たとえば元和8(1622)年に出羽・山形の最上家が改易されたあと、関ケ原の戦いのとき伏見城で名誉の戦死を遂げた元忠を父にもつ鳥居忠政が磐城平10万石から山形に22万石で入城。すると忠政の妹婿の戸沢政盛が出羽・新庄6万石に、娘婿の酒井忠勝が出羽・鶴岡(庄内)13万石に、いとこの松平重忠が出羽・上山(かみのやま)4万石に、というような例もあります。姫路の本多ファミリーには、西国への押さえ、という役割がふられたのでしょう。

 ただし千姫の夫、忠刻が惜しくも若死にしたことで、ファミリーには変化が。千姫は忠刻との間に生まれた女子とともに江戸城に帰ります。化粧料10万石は当然、幕府に返還。龍野にいた政朝が改めて嫡子となり、姫路へ。あいた龍野領は千姫の化粧料から1万石がプラスされて6万石とし、小笠原長次に与えられました。長次というのは、忠脩の遺児。父の顔を知らずに生まれてきたのですが、叔父の忠真と母とに育てられていたのです。やはり家康の血を引く人は待遇が良いのですね。

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