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【正論1月号】“蛆山”に眠る戦没者遺骨 収集は政府の義務だ ジャーナリスト 長谷川学

 防衛庁防衛研究所戦史室編『戦史叢書「インパール作戦・ビルマの防衛」』によると、フーコン作戦での旧日本軍の損失は、戦死約三千二百人、戦傷病約一千八百人。戦傷病者も間もなく死亡する者が多かったという。

 このため他の資料には死者約五千人とあり、フーコンに参謀として派遣された野口省己氏の『回想ビルマ作戦』では、病気や負傷で後方に送られた者も含めると、日本軍の損失は約一万人となっている。

 これはフーコンやミートキーナなどを守備した第十八師団(ビルマ方面軍第三十三軍の隷下師団・師団長は田中新一中将)一万五千人の三分の二に相当する。

 激戦地では将兵の遺体は、戦友が指を一本切り取り、持ち帰るのがせいぜいとされる。つまり指一本になって帰国した将兵についても、体はいまもフーコンで眠っていることになる。しかも、フーコン作戦後のビルマ各地での激戦を考えると、多くの遺骨が指一本、故国に戻れなかった可能性が高い。

 フーコン作戦を描いた田中稔元中尉の著書『死守命令』には、田中氏の凄惨な体験が綴られている。

 「家族の写真を肌身につけた戦友が、迫撃砲の直撃や機関銃で、つぎつぎに戦死した。壕の中で死んだ戦友の小指を切って遺骨とし、土をかぶせて葬った。十数名の戦友の遺骨を持った兵士が、また戦死するというありさまであった」

 「フーコン作戦」

 ビルマの戦いと言えば、インパール作戦が有名だが、フーコン作戦は一般的に知られていない。

 私自身、恥ずかしながら、我妻氏から聞くまでフーコンという地名すら知らなかった。だが、このフーコンは、連合軍と日本軍にとって戦略上の要衝だった。

 日本軍は一九四二年五月にビルマ全域を攻略したものの、同年末には連合軍の反攻が始まった。連合軍のビルマ奪還作戦は、まず三正面(フーコン、中国の雲南、インドのインパール)からビルマに侵入して日本軍に限定攻撃を加え、その後、この三正面と、ビルマ南西海岸およびラングーンへの上陸作戦敢行とによって総反撃を実施するというものだった。

 連合軍がフーコン、中国の雲南を侵入ルートにしたのは、レド公路(いわゆる援蒋ルート)が関係している。

 先の和泉氏が説明する。

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