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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第4章 現代に生き続ける「楠公さん」 6

 2体はいずれも、高さ約30センチ。大日本楠公会飛騨支部が昭和16年に結成されたのを機に、岡田肥吉(こえきち)という高山の実業家が、地元の彫刻師・江黒亮聲(りょうせい)に依頼し、寄進したものだ。

 昭和18年、大楠公追弔法要が同寺で行われた際、2体そろって公開された。当時の新聞には、両像が並んだ写真が掲載されている。

 天照寺からほど近い善応寺には、大楠公供養碑が立つ。昭和17年の建立で、滝町の住民も協力し、観心寺から分けてもらった松や桜を周囲に植えた。

 「昭和37年、供養塔建立から20周年の法要を行った際、大勢の人が参列しました。戦後の楠公タブー視の風潮の中、盛大だったことは印象に残っています」

 善応寺前住職の中井滕岳(とうがく)さんはそう述懐する。飛騨高山で、正成が敬慕されたのはなぜか。長瀬さんは次のように指摘する。

 「滝覚が飛騨出身であることに加え、この地には新田義貞の家臣の碑など、南朝ゆかりの史跡が多くあります。そうした歴史が関係しているのは間違いない」

 長瀬さんによると、昭和43年まで市役所だった高山市政記念館の軒丸瓦には、菊水が描かれている。

 河内から遠く離れた山国で、楠公の余光に今も触れることができる。それは、滝覚と正成の師弟関係を、飛騨の人が誇りに思い続けたからに違いない。=毎週金曜掲載

 ≪滝覚の誕生地

 滝覚(りゅうかく)は「ろうかく」「たきかく」とも読み、龍覚、瀧覚とも書く。曽祖父に当たる和田義盛は、源頼朝を助け、鎌倉幕府の成立に功績があった。しかし、北条氏と対立して敗死。一族は飛騨の滝町に落ち延びたという。

 足利尊氏は室町幕府開設後、滝町に近い地域を直轄地にしたとされる。南朝側の動向を警戒してのことだ。死後なお滝覚の影響力が大きかったことを物語る。

 最近では、滝覚に興味を持つ児童もいる。地元の高山市立岩滝小学校6年、野中あゆみさんは、滝覚を自由研究のテーマにし、大阪の観心寺にも足を運んだ。この研究により、同市の「図書館を使った調べる学習コンクール」において2年連続、賞を受けている。伝統を大切にする心が受け継がれている。

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