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【歴史の転換点から】大獄に死す-松陰と左内の「奇跡」(8)時代と洋の東西を超えて実現した悲願 野村興児・至誠館大学長 

 〈松陰と同様、安政の大獄の犠牲となった越前福井藩士、橋本左内。20歳そこそこながら藩有数の蘭方医であったころ、『西洋事情書』という小論文を著している。そこで左内は西洋諸国の政治・教育環境を分析し、西洋列強が国家の重要な法令や兵制の改革、工作(土木・建築・製造・工業などのこと)の振興に成功したのはまず学校での熟議を経て政府内で衆議を尽くしたからだ-としたうえで、天文や地理、算術、物理、医術、さらに法律や軍事などに関する実用的な学問を修得する学校の必要性を説いている。

 松陰もまた、晩年近くの小論文『学校を論ず』で、身分を問わず広く賢才に門が開かれた学校を振興させ、そこに工作を実地に学ぶことができる作場(実験場)を設けることで『知』と『実用』を融合させるよう訴えた。だからだろう、松陰は遺著『留魂録』で「(左内の)教学工作等の論、大いに吾が意を得たり」とまだ見ぬ親友をたたえている〉

工部大学校-明治に花咲いた松陰の悲願

 「『作場付き学校』という松陰のアイデアは、わが国だけでなく世界史的にも斬新であったと評価できると考えています。また左内が西洋諸国を範として『工作』や実用的な諸学問を教える学校開設に着目していたことは非常に興味深い一致です。松陰は幕末を代表する思想家であり蘭学者でもあった佐久間象山のもとで学び、象山に父事(父のように尊敬して師事すること)しました。蘭学という共通項が松陰と左内の学校に関する考えを結びつけた可能性があります。

 さて悲願の『作場付き学校』は明治10(1877)年、わが国初であり、学理と実地を融合させた世界でも進歩的な工学教育機関と評されている『工部大学校』として実現します。推進役は山尾庸三と松下村塾門下の伊藤博文。山尾は門下ではありませんが、松陰没後の幕末期、国内外で伊藤と行動をともにした盟友でした」

 〈工部大学校は設立から9年後、帝国大学工科大学(後の東大工学部)に併合される。その短い存続期間にもかかわらず、東京駅や日本銀行本店を設計した『日本建築界の元勲』、辰野金吾や世界で初めてアドレナリンの結晶化に成功した高峰譲吉ら屈指の人材を輩出した〉

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