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【歴史の転換点から】大獄に死す-松陰と左内の「奇跡」(8)時代と洋の東西を超えて実現した悲願 野村興児・至誠館大学長 

松下村塾舎がその境内にある松陰神社で=山口県萩市椿東(関厚夫撮影)
松下村塾舎がその境内にある松陰神社で=山口県萩市椿東(関厚夫撮影)
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 --もう少し具体的に説明してください。

 「米国海軍提督、ペリーに象徴される欧米列強の『力の外交』に抗して日本の独立を守り、主権を浸食されつつあった中国・清や植民地化されたインドの轍(わだち)を踏まない-。これが松陰の言動の根底にある志でした。この後、東アジアでまともに独立を保つことができたのは日本とタイぐらいだったことを考えると、松陰の先見性がよく分かると思います。

 しかしながらその結果、自らを『先駆け』として、門弟にまで忠死や義死を求めるようになります。その一つが老中襲撃計画です。これらは実行されることないまま、松陰は捕縛されます。そして松陰はすべて罪を自分に帰し、門弟だけでなく、政敵でさえ罪に問われないようにしたうえで斬首されます。志を説くばかりではなく、現実の社会のなかで実現する道を常に模索する。また、そのために非業の死に直面しても、将来を門弟たちに託し、一人従容として刑場に向かう。こうした松陰の生きざまは門弟たちの心を大きく揺さぶったはずです。

千万人と雖も吾往かん

 松陰の刑死後、度重なる戦火や政変で松下村塾生は次々と命を失い、離散するのですが、そのたびに再結集します。なかでも特筆すべきは、周りは幕府への恭順派ばかりという四面楚歌(そか)にあって『功山寺挙兵』を敢行した高杉晋作です。これを画期として長州では士民が一体となり、『四境戦争』と呼ばれた第2次幕長戦争に勝利をおさめるのです。

 私は、『千万人と雖(いえど)も吾往(ゆ)かん』そのものであり、長州藩を維新の推進役に導いた晋作のこの行動の原点こそ、松陰の『生きざま』-自らの全存在とその生涯をささげることによって実現した究極の教育の成果であると考えています」

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