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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第4章 現代に生き続ける「楠公さん」5 幕末に生まれた信州飯田との縁

大宮諏訪神社境内にある楠神社。提灯を下げる冨士山稲荷神社の禰宜、市原日貴さん=長野県飯田市宮の前(酒巻俊介撮影)
大宮諏訪神社境内にある楠神社。提灯を下げる冨士山稲荷神社の禰宜、市原日貴さん=長野県飯田市宮の前(酒巻俊介撮影)
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 天竜川が流れる名水の町、長野県飯田市で造られる日本酒「喜久水(きくすい)」は、信州を代表する名酒として知られる。元の名は「菊水」。楠木正成(くすのき・まさしげ)ゆかりの昭和初期の清酒として、『長野県の地場産業』(市川健夫・竹内浮彦編)にはこう紹介されている。

 〈楠木正成の千早(ちはや)城と飯田藩のかかわりにちなみ、正成の家紋をつけた飯田市仲之町M社(村田屋酒造のこと)の『菊水』(後の喜久水)〉

 正成は河内(かわち)(現大阪府)の武士で、人生のほとんどを畿内で過ごした。その生涯とは無縁の飯田と正成に縁が生じたのは江戸時代末期、慶応2(1866)年の第2次長州征伐の時だ。

 長州征伐は倒幕勢力の拠点であった長州を江戸幕府が攻撃した戦いで、飯田藩は畿内の守りを幕府に命じられ、藩士約60人が神戸に陣を敷いた。

 その際、藩士たちが目にしたのが水戸藩主だった徳川光圀(みつくに)が元禄5(1692)年に建てた正成の墓碑だ。表には光圀直筆の「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」の碑文があり、裏には「楠公諱(いみな)正成は忠勇節烈にして国士無双なり」の一節で知られる中国の儒学者、朱舜水(しゅしゅんすい)の「楠公賛」が刻まれている。

 墓碑には維新の志士をはじめ、多くの人々が熱心に参拝していた。後醍醐天皇への忠誠を尽くした正成の生涯に、対象は異なっても幕府に忠誠を尽くす飯田藩は、藩主・堀親義(ちかのり)を筆頭に魅了された。飯田藩はその後、墓碑前に一対の石灯籠を寄進、さらに藩内に楠神社を建立した。飯田藩の石灯籠は今でも、墓碑の場所に建てられた湊川神社(神戸市中央区)の境内にある。

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