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【歴史の転換点から】大獄に死す-松陰と左内の「奇跡」(1)彼はいかにして死生を超えたか

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吉田松陰肖像画(部分、山口県文書館所蔵)
吉田松陰肖像画(部分、山口県文書館所蔵)
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 吉田松陰。忠死や義死への誘惑に駆られたときもあった。が、彼ほど果敢に、とんがって生きようとした幕末維新の志士はいないだろう。その松陰は160年前の晩秋、徳川幕府の弾圧「安政の大獄」によって理不尽な死を強いられる。祖国の行く末を思うがゆえの彼の激しい生涯は長州藩を覚醒させる。以降、日本列島の西端に位置し、それまで国内政治的にはさほど期待されていなかったこの「関ケ原の戦いの負け組」は起爆的な推進役へと変貌し、時代は「幕末」から「維新」へとうねり始めることになる。

 亡き後も人々を新しい時代へと奔(はし)らせる-。かくて松陰は史上の人物となった。やはり安政の大獄で若い命を奪われた、まだ見ぬ親友・橋本左内との対比を交えながら、不朽へと至るまでの、決して平坦ではない松陰の「軌(奇)跡」を考えたい。(編集委員 関厚夫)

至誠、ついに幕府に通じず

 「わたしは今回一貫して、生きながらえるために画策することも、必ず死が待ち受けていると考えることもなかった。ただ誠の心が通じるか否かを天命に委ねただけだった。そして7月9日、ほぼ死を期した」

 安政6(1859)年、吉田松陰は江戸・伝馬町牢屋敷の一隅で筆を走らせていた。旧暦で10月26日。現代の暦でいえば今月(11月)20日にあたる。『留魂録』と名付けられたこの書は、松陰の遺著として広く知られるようになった。当時松陰は数えで30歳。満年齢なら29歳と2カ月半を過ぎたばかりだった。

 それがいつになるかについて松陰には知るすべがなかった判決申し渡しは翌27日のことである。三権分立や三審制など想像することすら困難だった当時、幕府による死刑宣告は、その日のうちに執行に移された。

 牢屋敷には将軍に謁見する資格のない御目見(おめみえ=御家人)以下の武士やそれに準ずる僧侶、医師、また諸藩の武士が収容された奥揚屋(おくあがりや)という区域があった。松陰はそのうち西奥揚屋にいた。そこから女囚用の西口揚屋と流罪人用の東口揚屋の2棟をへだてた東奥揚屋には、「賢侯」のほまれ高い越前福井藩の16代藩主、松平春嶽(しゅんがく、慶永)の側近だった橋本左内が、かつて座していた。

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