【書評】『湘南夫人』石原慎太郎著
■クールで求心的な味わい
一人の女性を中心に置いて複雑な人間模様を描き、現代日本人の心の空虚と、その底にある願望を照らし出す中編小説だ。歯切れのいい筆致で、展開にスピード感があり、大いに楽しめる作品に仕上がっている。
描かれているのは、湘南の高台に豪壮な邸宅を構える北原一族。北陸で鉄道を創設した初代が巨大な企業グループを作り上げた。三代目当主が急死したため、夫人だった紀子は三代目の異母兄弟と再婚している。
「湘南夫人」とは紀子のことを思わせ、彼女を焦点にして、企業の経営と音楽の創作という異質な2つのものが交差し合って作品の流れを作っている。
個性的な人物が何人か出てくる。一族の末端に連なる音楽評論家は、北原家の領地の一角に住まわせてもらいながら、「この国の風土や伝統を表象する交響曲」をプロデュースしたいと夢想している。彼は紀子にピアノの才能を認め、それを開花させたいとも願っている。
この音楽評論家の妻の甥(おい)は、交戦規定がないことに嫌気がさして、自衛隊を辞めた男だ。北原家に寄宿し、自分の経歴を生かしてビジネスをやろうとたくらんでいる。
2人の男はいずれも紀子にひかれている。紀子の夫は企業経営に精を出しながらも、紀子に関しては寛容な様子だ。音楽評論家の妻は現状に満足して、冷静に世の中を眺めている。
彼ら全員をひきつけたのが、元自衛隊員の呼びかけで始めたスキューバダイビングだった。海中を泳ぐのは、自分よりも大きな存在に直接に触れる行為だ。その神秘的な感覚がもたらす解放感に、現実世界が相対化され、心の空虚が満たされる。
見逃せないのは、魚たちと戯れる経験が音楽の魅惑と重ねられていることだろう。男たちは、現実を超えた価値を求める思いが抑えきれないでいるようなのだ。そして、物語は意外な方へ動いていく。
登場人物たちは、よく肩をすくめる。これは登場人物同士の独特な距離感を示しているように感じる。男女が2人きりになると、時に激しく求め合うのとは対照的で、この小説のクールなのに求心的な味わいにつながっている。80歳代後半にして、作家の健在ぶりを実感した。(講談社・1600円+税)
評・重里徹也(文芸評論家、聖徳大教授)