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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第4章 現代に生き続ける「楠公さん」(4) 鹿児島の離島 語り継がれた正行

甑島に伝承される楠木正行の墓。背後の金吾山に砦を築き、再起を期していたと伝わる=鹿児島県薩摩川内市
甑島に伝承される楠木正行の墓。背後の金吾山に砦を築き、再起を期していたと伝わる=鹿児島県薩摩川内市

 鹿児島・薩摩半島から西へ約30キロ。東シナ海に浮かぶ甑(こしき)島は小楠公、楠木正成の嫡子・正行(まさつら)が四條畷(しじょうなわて)(現大阪府)の合戦の後に落ち延び、再起を期しながら生涯を閉じた伝承が残る島である。

 伝承では、高師直(こうの・もろなお)率いる室町幕府の大軍と戦って敗れた正行は、生き残った一族とともに甑島に渡った。現在の中甑港に近い金吾山に砦を築き、再起を期したが時運に恵まれず、島で生涯を終えた。残った一族は山のふもとに墓を建て、代々守り続けた。

 その地には現在、供養塔のような墓石があり、「楠木正行の墓」と紹介する案内板が立っている。案内板はこう記している。

 〈天皇軍に属した楠木正成、正行はその軍に殉じたのであるが、伝説によれば楠木氏の一族は難を逃れ中甑や下甑に入り、正行は金吾山に構えをなして徐々に天下を観望していたが、不幸にして恨をのんで中甑に死没したと土地の人達は言い伝えている〉

 墓の横には、一族と思われる和田家の墓があり、墓石には菊水の紋が入っている。「この家は昭和50年代には北九州市に転居されて、今は島の有志らが墓の面倒を見ているようです」と、鹿児島県薩摩川内(さつませんだい)市上甑島教育課の松田啓美(ひろみ)課長は言う。

 昭和55年発行の『上甑村郷土誌』によると、正行の末裔と伝わる和田家には正行が桜井駅訣別の際に着用した鎧兜があり、鎧の裏には菊水が染め抜かれていたという。また、正行の戒名を「静眼院殿寿城大臣士」とした位牌も安置されていたが、いずれも散逸したと書いている。

 数え11歳で摂津・桜井駅で、湊川(現神戸市)の戦いに赴く父・正成と別れ、成人後に父の遺志を引き継いで南朝・後村上天皇のために死力を尽くして戦った正行は「小楠公」と呼ばれる。小楠公が父の大楠公に勝る点の一つは、伝承される墓の多さだ。

 正成が殉節地の湊川神社境内(神戸市中央区)に墓があり、楠木氏の菩提寺・中院を境内地に持つ観心寺(大阪府河内長野市)に首塚があるのに対して、正行は全国6カ所に墓がある。その理由を「四條畷楠正行の会」の扇谷昭会長はこう推測する。

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