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【話の肖像画】女子柔道金メダリスト・谷亮子(44)(4)温かい応援 格別のシドニー「金」

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シドニー五輪の表彰式で。金メダルに笑顔がはじけた
シドニー五輪の表彰式で。金メダルに笑顔がはじけた

 〈五輪を知り尽くす第一人者は、コンディション作りの重要性を感じていた。3度目となる2000(平成12)年、シドニー五輪を前に一つの提案をした〉

 5大会連続で五輪に出た中で、私は競技初日の試合と最終日の試合を両方経験しています。バルセロナ、アトランタのときは最終日。シドニー、アテネ、北京は初日に試合がありました。日本選手団として現地入りするので、試合が初日にある選手も最終日の選手も一緒に移動するというのが慣例でしたが、現地入りしてからの調整練習期間は全く異なります。

 バルセロナとアトランタは、競技初日の1週間前に入りました。7階級あるので、私が出る最終日までさらに1週間あきました。自分1人で調整できる競技ではありません。コンディションを仕上げるのに練習パートナーが必要です。試合を想定して、タイプの違う相手と多く組み合うのも重要になりますが、現地入りから約半月もあくようでは、このような練習ができなくなります。そんな経験があったので、アトランタ五輪直後に問題提起したこともありました。選手のコンディションを最優先に考慮し、シドニー以降は前半の選手と後半の選手が別々に現地入りすることが可能となっています。

 〈25歳で迎えたシドニー五輪は前進あるのみだった。自身に課したのは「最高で金、最低でも金」〉

 私は小学2年生、7歳のときに柔道を習い始めました。五輪を知ったのはその頃で、ロサンゼルス五輪や女子柔道が公開競技で行われたソウル五輪を、テレビで見ていました。初めて五輪について発言したのは、小学5年生で出た全国少年大会で、テレビ局のインタビューを受けたときです。当時、女子選手はほとんどいませんでした。男子選手と試合をするのが日常で、練習も男子相手に奮闘していました。「将来はどんな大会に出たいですか」と聞かれて「オリンピックに出たいです」と話したことを今でも覚えています。シドニーは社会人(トヨタ自動車)となって迎えた五輪でした。「最高で金、最低でも金」を有言実行するため練習方法からトレーニング、体のメンテナンス、けがの治療、戦術、全てを再考し実践して完成させました。私流に。慎重かつ大胆に攻めるけれど、平穏な気持ちをもって臨む。あらゆることが大きく自分の中で成長して迎えられ、真剣に向き合った五輪でした。

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