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【話の肖像画】女子柔道金メダリスト・谷亮子(44)(3)「なぜ勝てたのか」に鍵

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シドニー五輪決勝ではロシアのブロレトワに内またで一本勝ち。念願の金メダルを獲得した
シドニー五輪決勝ではロシアのブロレトワに内またで一本勝ち。念願の金メダルを獲得した

 〈1996(平成8)年のアトランタ五輪で再び銀メダルに終わったものの、ファンの声援に背中を押され、次のシドニー五輪へと始動した。ところが…〉

 20歳になると周りの環境が一変し、引退を勧められました。1度出るだけでも大変な五輪に2度も出た上に、「2個もメダルを持ってるんだから」と。減量も体に負担がかかるし、けがも心配されました。周囲から「よく頑張ったよ」「これからは後進の指導に」と言われたんです。それまでも、先輩方が自然と引退の方向になっていくのを見てきましたが、私は「まだまだ研鑽(けんさん)を重ねていきたい」という思いが強かった。引退の勧めを一蹴し、シドニーへの思いをはせて、信条を貫くことを決めました。

 〈現役続行は、簡単なものではなかった〉

 私が柔道を習い始めた頃からの憧れは、同じ女子48キロ級のカレン・ブリッグス選手(英国、世界選手権で優勝4度)でした。女子柔道の絶対的な存在です。小学2年のとき、地元開催の福岡国際女子で活躍する姿を初めて見ました。毎年、出場の度に優勝していたので、彼女の技をまねしてみたこともあります。

 私が中学生で優勝した福岡国際(1990年)の準決勝が初対戦でした。バルセロナ五輪の準決勝でも対戦し、私が勝ちを得ましたが、五輪の後で彼女に「次は亮子の番よ」と言われたんです。バトンを受けたといいますか、当時16歳の私にとって大きな励みとなる一言でした。

 それから4年がたち、アトランタの銀はバルセロナの銀とは意味合いが違って「また、4年先を目指せるのかな」と。4年間がどれだけ長いか知っていたので。バルセロナからアトランタまでの4年間は非常に長かったし、シドニーまでの4年間は果てしなく長いだろうな、と。「シドニーに出場できたとしても、本当に金が取れるだろうか」という思いが、アトランタで負けた直後はありました。

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