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【本郷和人の日本史ナナメ読み】小笠原氏の軌跡(上) 信濃の「おいしい所」取った名族

 彼は父の遠光の所領のうち、巨摩郡小笠原郷をもらい、小笠原を家名としました。『吾妻鏡』において長清が小笠原を名乗るのは元暦元(1184)年以降で、建久6(1195)年までは加賀美と小笠原の名乗りが混在しています。この所領については巨摩郡のなかに小笠原という地名が現在2カ所あるため、今の南アルプス市小笠原か北杜市明野町小笠原かで議論があるようです。

 さて、長清は兄・秋山光朝とともに京で平知盛の家来を務めていましたが、ひとたび鎌倉に従ってからは、頼朝に忠実に仕えたようです。頼朝と幕府は源氏一門を一般御家人の上位に位置づけて厚遇する一方で厳しく監視もし、少しでも怪しい動きがあると容赦なく滅ぼしました。信濃源氏の平賀氏や美濃・尾張の源氏は討たれ、上野の新田氏は鎌倉時代を通じてうだつが上がりませんでした。

 いま平賀氏の名を出しましたが、源氏一門の最上席は足利氏で、だから北条一族が滅びると足利尊(高)氏がすんなりと武門の棟梁になったのだ、という理解があるかと思います。それは間違いではないのですが、幕府ができた頃は、最上席は平賀氏、足利氏は第2席でした。平賀氏は後鳥羽上皇に接近して、将軍にもなれるほど家格を上げていきます。そのために、北条時政は愛娘(まなむすめ)(正室の牧氏が生んだ子)の婿である平賀朝雅を源実朝に代えて将軍にしようと画策。結局この企ては失敗して時政は失脚して故郷に蟄居(ちっきょ)、朝雅は京都で討たれ、平賀氏は力を失います。

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