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【本郷和人の日本史ナナメ読み】小笠原氏の軌跡(上) 信濃の「おいしい所」取った名族

伝源頼朝像(模本、東大史料編纂所蔵)
伝源頼朝像(模本、東大史料編纂所蔵)

 10月に長野県立歴史館で講演の機会を与えられ、そこで小笠原氏についてお話しする予定でした。そしたら、例の破格な台風が来て、講演会が中止になってしまった。でもせっかくいろいろ調べたので、要点だけでも書いておきたいと思います。

 武家の棟梁(とうりょう)としての源氏は、八幡太郎義家の華々しい武功によって始まります。彼が八幡太郎というのは、石清水八幡宮で元服したから。弟の義綱は賀茂社で、義光は新羅(しんら)明神(大津三井寺の新羅善神堂)でそれぞれ元服したので賀茂二郎、新羅三郎と称しました。義綱は兄の義家と確執があったのですが、義光(1045~1127年)はよく義家を補佐しました。後三年合戦の折、奥州で苦戦する兄を助けに官を辞して東下(寛治元=1087年)。彼は日ごろ楽人の豊原時元について笛を習い、上達して秘曲を授けられていたのですが、時元の子・時秋が奥州の戦場へ赴く彼を追って箱根までやってきた。義光は自身が討ち死にして秘曲が滅びることをおそれ、足柄の山中で時秋に伝授したといいます(『古今著聞集』)。いい話ですね。実際に事績を調べてみると、彼はけっこうな陰謀家というかワルだったみたいですが、まあそれはさておき。

 義光は常陸介、甲斐守に任官しました。それで彼の子孫は両国で繁栄していきます。常陸では佐竹氏。甲斐では武田氏。本領は常陸の方だったようで、信玄に連なる武田家も義光の三男の義清が常陸国那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市武田)を与えられて「武田冠者」を名乗るところに由来しています。

 義清の子に加賀美遠光(とおみつ)がいて(系譜は異説あり)、甲斐国巨摩郡加賀美郷(現在の山梨県南アルプス市の一部)に所在する加々美荘を本領としました。彼は弓の名手として高倉天皇に仕えていたようですが、源平の戦いが始まると源頼朝に従い、鎌倉幕府では「源氏の一門」として足利氏や武田氏などとともに丁重に扱われました。頼朝の推挙を得て信濃守にも任じています。そしてやっと出てきました。この遠光の子が小笠原氏の祖となる長清なのです。

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