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ゴッホを変えた2つの出会い ゴッホ展、東京で11日開幕

 ≪アニエールのヴォワイエ・ダルジャンソン公園の入口≫ 1886年、ゴッホは弟のテオを頼ってパリに移り、印象派と出会う。本作の舞台アニエールはパリ郊外の行楽地で、多くの印象派や新印象派の画家らが通った。ゴッホもまた、友人のシニャックらとここで制作に励んだ。オランダ時代から比べ、色調だけでなく筆触も印象派、新印象派風に変化している。 フィンセント・ファン・ゴッホ 《アニエールのヴォワイエ・ダルジャンソン公園の入口》 1887年春 イスラエル博物館 Photo (c) The Israel Museum, Jerusalem by Elie Posner
 ≪アニエールのヴォワイエ・ダルジャンソン公園の入口≫ 1886年、ゴッホは弟のテオを頼ってパリに移り、印象派と出会う。本作の舞台アニエールはパリ郊外の行楽地で、多くの印象派や新印象派の画家らが通った。ゴッホもまた、友人のシニャックらとここで制作に励んだ。オランダ時代から比べ、色調だけでなく筆触も印象派、新印象派風に変化している。 フィンセント・ファン・ゴッホ 《アニエールのヴォワイエ・ダルジャンソン公園の入口》 1887年春 イスラエル博物館 Photo (c) The Israel Museum, Jerusalem by Elie Posner
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 この展覧会では、ハーグ派と同時に、1886年2月のパリ転居以降のゴッホと、同時代の印象派絵画とも比較対照している。パリでゴッホは古典的な美術アカデミーで学びながらも、スーラやゴーギャンなど、同世代の若い画家たちから刺激を受けていた。そのなかでもゴッホは、1886年まで実見したことのなかったモネには深い感銘を覚えていた。ゴッホの《アニエールのヴォワイエ・ダルジャンソン公園の入口》(1887年)には、ゴッホが印象派、さらにはシニャックらの新印象派から学んでいたことを示す。

≪薔薇≫ あふれるばかりに咲き誇る満開のバラ。ゴッホが手がけた数多くの静物画の中でも「最大級にして最も美しい作品のひとつ」と称(たた)えられる名作は、精神療養院を退院する直前に描かれた。生命の輝きの象徴として花をとらえていたゴッホだが、本作でも体調を回復した喜びがうねるような筆触で表現されている。 フィンセント・ファン・ゴッホ 《薔薇》 1890年5月 ワシントン・ナショナル・ギャラリー(c) National Gallery of Art, Washington Gift of Pamela Harriman in memory of W. Averell Harriman
≪薔薇≫ あふれるばかりに咲き誇る満開のバラ。ゴッホが手がけた数多くの静物画の中でも「最大級にして最も美しい作品のひとつ」と称(たた)えられる名作は、精神療養院を退院する直前に描かれた。生命の輝きの象徴として花をとらえていたゴッホだが、本作でも体調を回復した喜びがうねるような筆触で表現されている。 フィンセント・ファン・ゴッホ 《薔薇》 1890年5月 ワシントン・ナショナル・ギャラリー(c) National Gallery of Art, Washington Gift of Pamela Harriman in memory of W. Averell Harriman
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 ゴッホはこの後、同時代の画家との交流・衝突、さらにユートピアとしての日本を希求しながら、亡くなるまで自らの様式の確立を追求し続けた。本展覧会の白眉である《糸杉》(1889年)や《薔薇》(1890年)は、彼の最後の試行錯誤がかたちになったものと言えるだろう。

 この展覧会では、ハーグ派、印象派という19世紀ヨーロッパ近代美術の新潮流と出会ったゴッホ芸術を体験することが出来るだろう。(オランダ美術史家/熊澤弘・東京藝術大学大学美術館 准教授)

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