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【本郷和人の日本史ナナメ読み】広島と浅野家(下)「神君の血筋」は最強の武器

 1つ目。1668年に父の忠昌が病死。すると、父のお気に入りだった杉浦右衛門兵衛に対して「おまえ、まだ生きているの?」と失言。杉浦は武士の面目が立たないと、すぐに切腹して忠昌のあとを追った。ところが文治政治への転換を進めていた江戸幕府は、この事件に先立つ1663年、殉死禁止令を出していたんですね。だから、昌能と杉浦の行為は殉死の制禁に対する挑戦ととらえられても仕方がなかった。

 2つ目。同じく忠昌が没した14日目には、法要が営まれた下野の興禅寺で刃傷事件が起きています。奧平家には長篠の戦いで殊勲を挙げた七族五老という大身の家臣がいましたが、1300石を食(は)む奧平隼人が1千石取りの奧平内蔵允を些細(ささい)なことが原因で罵倒。内蔵允は抜刀しましたが、斬り損ね、恥じて自害。藩士たちは喧嘩(けんか)両成敗の大原則から、隼人にも切腹の沙汰が下るものと思っていたところ、昌能は処分に手間取り、結局は改易にとどめた。この処置に納得しない藩士が多く藩を離れ、この一件は結局、1672年の浄瑠璃坂の仇(あだ)討ちにつながっていきます。

 この2つの失敗がありながら、昌能は2万石を減らされて、出羽山形へ左遷されただけにとどまっています。彼が普通の大名だったならば、こんな軽い処分では済まなかったはず。

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