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【本郷和人の日本史ナナメ読み】広島と浅野家(上) 家康の娘を迎えて「お家安泰」

 徳川家康は子だくさんで、妻妾(さいしょう)に男の子11人、女の子5人を生ませています。女の子5人のうち、成人したのは長女・次女・三女の3人。長女の亀姫は正室の築山御前とのあいだの子で、奧平信昌に嫁ぎました。子孫は豊前・中津10万石や武蔵・忍(おし)10万石の殿さまになっています。次女の督姫は西郡局(にしのこおりのつぼね)(三河の鵜殿氏)とのあいだの子で、はじめ小田原の北条氏直の夫人となり、北条氏が滅びた後は池田輝政の後妻となりました。子孫は鳥取池田家32万石の殿さまとして江戸時代を過ごしました。

 今回注目したいのは、三女の振姫(1580~1617年)です。母は側室の良雲院。この人の父は武田旧臣の市川昌永とされていますが、諸説あるようです。また母は下山殿(穴山梅雪の養女?)という人だったとする説もあります。なにしろ甲斐の武田ゆかりの母親をもつ女性なのですね。

 彼女は豊臣秀吉の命により蒲生氏郷の嫡男・秀行と婚約。慶長3(1598)年に輿(こし)入れしています。秀行は父の遺領である会津92万石を領有していましたが、この年、宇都宮18万石に左遷されました。でも関ケ原の戦いでは東軍についたため、なんとか会津を回復しています。所領は60万石ですが、大大名であることに違いありません。

 振姫は夫との間に、忠郷、忠知の2男と1女(加藤清正の子、忠広の正室)をもうけます。ところが夫が慶長17(1612)年に30歳で急死してしまいます。長男・忠郷はまだ11歳。振姫は幼い息子に代わって果敢に藩政を切り盛りしますが、蒲生家は重臣の発言力の強さで有名。家老・岡重政との対立が激しくなり、結果、徳川家康の裁定を仰ぐことに。父の家康は娘の肩を持ち、重政は切腹に追い込まれました。

 藩主夫人と家老が真っ向から対立し、あげく家老が切腹を命じられた、などという事例はあまり見ることがありません。こうしたゴタゴタがあったからだと思われますが、振姫は元和元(1615)年、家康の命により、和歌山藩主の浅野長晟(ながあきら)と再婚することとなり、子を置いて蒲生家を去りました。一応対立は振姫に軍配を上げたけれど、彼女は蒲生家から遠ざけた方がよさそうだ、という家康の政治的判断だったのではないでしょうか。

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