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【話の肖像画】国連軍縮担当上級代表(事務次長)・中満泉(56)(2)夢の留学で最初の失敗

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左から妹の中満恵さん、母親の敦子さん、弟の潔さんと、当時住んでいた東京都東久留米市内の公務員宿舎にて
左から妹の中満恵さん、母親の敦子さん、弟の潔さんと、当時住んでいた東京都東久留米市内の公務員宿舎にて

 〈巨大組織の国連で日本人最高位職員として活躍するが、海外育ちの帰国子女ではなく、日本生まれの日本育ち。ただ子供の頃から、海外で何が起きているのか、興味は強かったという〉

 私は長女なので、しっかりした子供だったと思います。下に妹と弟がいるんですけど、常に「お姉さんだから、妹と弟を助けてね」と言われて育ちました。生まれは東京です。文部省(当時)の官僚だった父の仕事の関係で、小学校は東京と福岡で計5回も転校しました。そのおかげで、新しい環境に溶け込む適応能力はついたと思います。また小さい頃から、海外のことには非常に興味がありました。

 小学生の頃、フォード政権で国務長官だったキッシンジャー氏のニュースに興味を持って、いとこたちと「キッシンジャーの平和会談」とか言って、会談のまねごとをして遊んでいたそうです。私は覚えていないのですが…。役割を決めて、いとこ相手に議論をふっかけたりして。母親がその時の様子をカセットテープにとっていて、今でも大事に保管しているんです。海外に行ったことがなかった分だけ、一種のあこがれみたいなものがあったのかもしれません。

 中学、高校は横浜の私立、フェリス女学院に通いました。高校生のとき、朝の礼拝の時間にマザー・テレサのドキュメンタリー映画を見たことも将来を考えるきっかけになりました。私は高潔な人間じゃないので、マザー・テレサのようになりたいと思ったわけではありません。ただ、映画を見て「世の中の役に立つための活動をする生き方があるんだ」と感銘を受け、自分は何ができるんだ、何をすべきなんだ、と考えるようになりましたね。当時はジャーナリストや教師になるのもいいなと思っていました。

 〈長い間の夢だった海外を初めて訪れたのは21歳のとき。早稲田大3年生のときに1年間の交換留学プログラムに合格し、米ミシガン州ホーランドという小さな町のホープ大学で勉学にいそしみ、友人もたくさん作った〉

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