PR

ライフ ライフ

【モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら】(59)さようなら安部譲二さん

情愛が濃くチャーミングだった安部譲二さん
情愛が濃くチャーミングだった安部譲二さん

安藤昇さんにあこがれて

 日本の敗戦後、「戦勝国民」と称し、都心の主要駅前を占拠して闇市を取り仕切っていた在日朝鮮人と対立し、自衛組織を作って闘っていた男がいた。のちに東京・渋谷を縄張りとする東(あずま)興業という会社(実態は暴力団)を興し、一帯ににらみをきかせた。男は入れ墨を嫌い、社員に背広を着用させ、指詰めや薬物の使用を禁じた。のちに俳優や映画プロデューサーとして活躍するニヒルな男は、ある傾向をもった青少年の憧れの的となる。安藤昇さんである。

 良家に生まれ、小学校時代は神童と呼ばれ、麻布中学に入学して初めて、自分が神童でないことに気付かされた少年もそうだった。安藤さんに心底しびれ、東興業(安藤組)の門をたたく。後半生は作家として活躍した安部譲二さんだ。

 その安部さんが先日82歳で亡くなった。塀の中には何度か落ちたものの、銃や刃物で命を落とすことなく天寿をまっとうした。平成17年、本紙「わたしの失敗」に登場した安部さんはこう語っている。

 《18や20のころには、自分はえらくなれそうもないと気づいてた。とことん非情にはなれないから。どんな世界でも冷酷になれない男が人の上に立ってはいけない。親方にすれば、甘い男ほどやばいものはない。安藤組の親分はオレの性格を知っていて、戦闘部隊から外して“総務”で保護してくれていたんだよ》

 どんな組織であろうと、トップに立つ人間に不可欠な資質のひとつが非情さだろう。組織を守るためには人命さえ犠牲にできるという…。何度か紹介しているモンテーニュの言葉を繰り返す。《公益のためには、裏切ることも嘘をつくことも、また人殺しも、必要である》(第3巻第1章「実利と誠実について」)。この部分だけ抜き出すと、モンテーニュはマキャベリストのように思われるが、この言葉は次の言葉に挟まれているのだ。

 《我々みたいな意気地なしは、もっと容易な・危険の少ない・役にまわろう》《だがこういうお役目は、我々よりも柔順で融通のきく人たちの方にお願いしよう》

 人にはできることとできないことがある。その見定めが人生の幸・不幸を決める-。ここにはモンテーニュの柔軟な思想がよく表れている。この言葉を受けて理想を言えば、「自分は非情になれない」との自覚を持つ者はけっして組織のトップになってはいけない。さらにトップに立つ者は、人の資質を見極めながら使い分けていかなければならない。安部さんにとって安藤さんは、理想的なボスだったのではないか。

真っすぐで残酷を嫌う

 ある時期、安部さんとはとても濃密な時間を過ごした。弊社が発行するオピニオン誌「正論」の編集者時代、執筆陣に安部さんを引っ張り込み、「日本怪死人列伝」なる連載を執筆していただき、本紙文化部時代には「断」という辛口コラムを書いてもらった。安部さんのお宅には何度かお邪魔し、吉祥寺は「ハモニカ横丁」の飲み屋や人形町のすき焼き屋などでお相手をさせてもらった。

 情愛が濃くチャーミングで真っすぐな人だった。何よりも残酷を嫌い、公権力に対して誰よりも敏感だった。安部さんは死刑反対論者だった。公権力は自身の保身やプライドのために、冤(えん)罪(ざい)を作り出してしまうことがあり、死刑を執行してしまったら取り返しがつかないから、というのがその理由だ。

 原稿料についても真っすぐだった。初めて執筆をお願いしたとき、「バブルの崩壊で多額の借金を抱えているので、1枚1万円以下の仕事は受けません」と率直に条件を提示してきた。新聞のとある企画でインタビューを申し込んだとき「謝礼はありません」と伝えると、「それはだめだよ。ロハ(タダ)の仕事を受けたなんていう情報はすぐに広まるんだ。安部は落ちぶれてそんな仕事も受けるようになったと言われてしまう。考え直してくれませんか」と突っぱねられた。

シオランを読み“改心”する

 平成14年、コラムニストの山本夏彦さんが87歳で亡くなったとき、追悼文の書き手として真っ先に浮かんだのが安部さんだった。

 服役中、木工の仕事をしていた安部さんは、山本さんが発行するインテリア専門誌「室内」を愛読し、山本さんのコラムに毎回うならされていた。堅気となり小説で身を立てようと、講談社の文芸PR誌「IN★POCKET(インポケット)」に細々と短編を発表していた昭和59年、アパートの電話が鳴る。山本さんだった。安部さんの文才を見抜き、「室内」への連載を打診してきたのだ。安部さんは喜んで受け、弟子にしてくれるよう頼み込む。こんな経緯をへて、安部さんの『塀の中の懲りない面々』は、山本さんのバックアップで刊行されることになる。

 “前科者”をバックアップする山本さんに「何を考えているのか」といぶかる者もいた。山本さんは「私は安部譲二の文章を見て、前科を見ません!」と答えたという。

 山本さんは晩年、シオランの箴言(しんげん)《私たちは、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは、国語だ。それ以外の何ものでもない》を好んで引用した。シオランはルーマニアに生まれ、パリに生きた思想家だ。

 安部さんが獄中で、人間の悪を透徹したまなざしで見つめたアフォリズムの書であるシオランの『生誕の災厄』を読み、“改心”したと言っていたことを思いだす。人間の悪から目を背けぬシオランを通じ、ふたりの出会いは、ずっと昔から準備されていたのかもしれない。

 果たして、届いた追悼文は、濃い情愛のこもった真っすぐな内容だった。それはこう結ばれる。

 《87歳だから天寿を全うしたのだとか、50歳だから残念だったということは、愛のある仲ではないのだ。/最後まで現役として文章をお書きになった師匠を、僕は尊敬する。/偉大だと心から思う。/しかし、湧いて来る悲しさが止まりはしない。/よくしてくださった方がお亡くなりになったのだ》

 この文章で「銃や刃物で命を落とすことなく天寿をまっとうした」と書いた私は、きっと薄情者なのだ。さようなら安部さん。

 ※モンテーニュの引用は関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』(国書刊行会)によった。(文化部 桑原聡)

       =隔週掲載

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ランキング

ブランドコンテンツ