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【本郷和人の日本史ナナメ読み】政治は軍事の「おまけ」?(下)政務の地位、低かった鎌倉・室町

 ただし、そうはいっても、執事なり管領というのは政治の実権を握る立場。今で言うと幹事長とか官房長官並みの要職ですから、断る手はないだろうと現代のわれわれなら思う。ところがいい顔しないんだよなあ。高経は渋々子息の義将(よしゆき)を執事に据えて自身は後見役となるのですが、これは「政治を行う」ということ自体の価値が十分に把握されていなかった証拠となるのではないでしょうか。

 鎌倉幕府が成功した理由はいろいろあると思いますが、その一つは、源頼朝が文書行政という概念を理解していたことが挙げられるでしょう。彼はすでに旗揚げの時、都から地方に下向していた大和判官代(ほうがんだい)邦通(くにみち)(出自は明らかではない)という文人を配下としていて文書を作成させていました。彼が書く文書を通じて御家人の所領の管轄を行ったのです。立派な行政行為といえます。

 頼朝の力が大きくなると、大江広元や筑後権守俊兼(としかね)ら有能な人物が頼朝の召しに応じて都から下ってきて吏僚(りりょう)集団を形成し、幕府の運営が円滑に進むようになります。1221年、幕府が後鳥羽上皇と戦った承久の乱の時も、広元や三善康信の献策はたいへん有効でした。ところが、です。広元や康信の子供たちは、親の跡を継いで吏僚として活躍するのかと思いきや、みな筆を捨てて武士になってしまうのですね。たとえば中国地方の毛利家は広元の四男の子孫です。これなんか、政務の地位が低いことを示す好例だと思います。

 では鎌倉幕府の政治や裁判はどういった人たちが担っていくのかというと、奉行人(ぶぎょうにん)と呼ばれる人たちになります。生粋の官人出身者ではなく、武士なんだけれども文事に強い。そういう家が生まれ、代々吏僚として働き、室町幕府にも引き継がれていく。ただしその地位はさほど高くありません。どう見ても鎌倉・室町幕府で政治的発言権を持っていたのは、豊かな領地を持つ、すなわち優勢な軍事力を誇る有力御家人なり守護大名です。大きな領地を持つ人が大きな発言権を持つ。

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